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International Reserach Group for Transregional & Emerging Area Studies
The International Reserach Group for Transregional & Emerging Area Studies is a non-partisan and multidisciplinary Think-Tank Organization.
11:11 - 23 March 2000

イスラーム運動と政治アイデンティティー形成 ― モロッコの「公正と慈善の集団」の事例 ―

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Islamic Movement and the Building of its Political Identity -The Case of Group Justice and Welfare in Morocco –

 レズラズィ・エルモスタファ        ElMostafa Rezrazi *

1. 序論

イスラーム運動に関する研究はこれまで多くおこなわれてきたが、運動体の組織構造や運動内部で実施されている教育システムに対する研究者の関心は比較的低いものであった。その理由は様々であるが、次の二点に大別できよう。

1:運動の内部資料へのアクセスが困難であること。とりわけ対象とするイスラーム運動が非合法に地下活動を行っている場合、地域研究者がその集団内部の活動状況を理解するための資料を入手することは非常に難しい。入手できた場合でも、研究者自身が政府当局から嫌疑をかけられたり、対象とする運動を危険にさらす恐れが伴い、資料を十二分に活用できない場合が多い。

2:集団の組織構造や再社会化のための教育システムに関する研究を遂行するためには、小集団内研究に関するマトリックス理論や内的葛藤などを取り扱った社会心理学や世論研究に立脚した分析が不可欠であるが、これらのディシプリンを専門とする地域研究者が少ない。

政治的な再社会化は、集団のイデオロギーが持つ知的・政治的内容に集約されるものではない。つまり集団が世論形成に及ぼす影響やイデオロギーを評価する際、集団の成員がそのイデオロギーに統合・同化し、社会化してゆくメカニズムもイデオロギーの内容と同様に重要であるという仮説に基づいて、イスラーム運動研究のうち上述した比較的まだ進められていない分野をカバーすることを、本論文では目指している。

本論文で取り上げるモロッコのイスラーム運動の一つ、「公正と慈善の集団」(Jama‘a al-‘Adl wa al-Ihsan :ジャマーア・アル・アドル・ワル・イフサーン)の組織や内部の教育システムを明らかにするために主に使用した資料は、この運動から公に出版されている文書であった。しかし、この運動の社会的構成要素を調べるためにおこなったフィールドワークにおいて、数名の幹部にインタビューし、「預言パラダイム」(Minhaji an-Nabawi :ミンハージュ・アンナバウィー)と呼ばれる運動独自の教育哲学に関する話を聞くことが可能となった。文書から得られる情報に不足する点の多くをこれらのインタビューから入手できた(筆者が初めてヤースィーンのグループに接触したのは、筆者がまだサフィーに住んでいた15年前にさかのぼる。筆者にアブドゥ・アッサラーム・ヤースィーンについて初めて話をしたのは、アブドゥルワヒド・アル・ムタワッキル(「公正と慈善の集団」のMajlis al-Irshad現行メンバー)であった。その後、別のメンバーに付き添われて、シェイフ・ヤースィーンと彼のサレー・タブリフトの居宅において会う機会を得た。またサフィーでは、同集団のMajlis al-Irshadの現行メンバーで、多くの町のモスクで説教をおこなっているムハンマド・ラフィーイーとムハンマド・アッバーディーの両者に会う機会に恵まれた。後に、モロッコの日刊紙アラムのジャーナリストとして、同集団の幹部に接触し、集団の政治的プログラムや活動に関する資料を手にする多くの機会があった。数年後、特に学術的観点から集団の活動に関心を抱き始めたとき、Majlis al-Irshadのリーダーたち、特にファタハッラー・アルサラーン(集団の広報担当者)、アブドゥルワヒド・アル・ムタワッキル(Majlis al-Irshadのメンバー)、ムハンマド・アル・バシーリー博士(Majlis al-Irshadの前メンバー:ヤースィーンとの決別の二年後、不幸にして1999年秋に人々に知られることもなく没した)に会い、接触を保つことができた。)。

「公正と慈善の集団」に最も特徴的にみられる点は、政治的な目的をもって結成された集団が、成員らに友愛などの精神的支柱をも提供する小規模な社会となり、彼らに運動の原則に沿った訓練と教育を行い、既存の社会を支配する価値観に対する非常に強い防衛機能を保有させるに至ったことである。

ハサン・アル・バンナー(Hasan al-Banna)を指導者とした時期の、エジプトのムスリム同胞団や、アブドアッサラーム・ヤースィーン(`Abd as-Salam Yasin )指導下の「公正と慈善の集団」は、包括的な成員の再社会化システムを確立した。このシステムで最も重要な点は、その包括性と多面性にある。これらの特徴をもつがゆえに、まさに「社会のなかのもう一つの社会」あるいは「国家のなかのもう一つの国家」と描写されるのである。この「社会」あるいは「国家」において、「混乱した」(Maftun)社会や 「無明な」(Jahili) 社会における伝統的なムスリムを、新たなイスラーム社会形成のためにJahiliシステム、つまりイスラームの原理に沿っていないシステムに対するジハード(Jihad)を行う集団の構成員に養成する(サイイド・クトゥブが、20世紀を「ジャーヒリー社会(無明の社会)」と描写したのは、『クルアーン』の次の章句に依拠している:「彼らが求めるのは無明の裁判であるのか。だが信心堅固なものにとって、アッラーに優る裁判があろうか」(食卓章:第50節)。サイイド・クトゥブは次のように議論している。「ジャーヒリーヤは歴史の一部ではない。それはむしろ条件さえそろえばいかなる場所やシステムにおいても表れる状況である。本質的には、神のシステムと神の法にではなく、人間の願望に権力と法的効力を持たせる状況である。そのような願望が個人、階級、国家、あらゆる世代のいずれのものであっても変わりはない。彼らがアッラーのシャリーアに従わない限り、それら全ては単に主観的願望である。」(Fi Zilal al-Quran, Vol.V. Dar as-Shuruq, Beirut 1985.p891)。

Jama`a の「再社会化」は、統合、同化、評価という複雑なプロセスを持つ。まず最初に、成員にJama`aの原則に親しませ、それを受け入れさせる。第二に、成員と伝統的ムスリムを区別し、次に成員を様々なカテゴリーに分類し、それぞれの「社会化」の程度に応じて集団内の地位を与えてゆく。

ヤースィーンの「預言パラダイム」にみられるこのようなプロセスは、小集団内の人格変容に関するマトリックス理論を想起させる。この理論に基づいて人格システム、社会システム、文化システムという構造的観点から小集団内の人格変容を説明することが可能となる。

集団を全体としてとらえた場合、それぞれの集団は個々の社会的、文化的システム有している。従って集団は、単に個人の集積ではなく、一つの構造や特徴を有することになる(Elmostafa Rezrazi, The body and its associative manifests in small-groups. In  French, Revue d`Ethno-psychiatrie. Vol. XXI 1991. Pp.432-435.)。

本論文では、モロッコにおけるイスラーム運動を検討する。ケース・スタディーとしてはJama`a al –Adl wa al-Ihsanを取り上げ、この集団がどのように組織、メンバー、政治プログラム、「政治市場」でのリーダーシップを形成したのかを検討・分析する。

 

 

2 モロッコにおけるイスラム運動の歴史的アイデンティティ

イスラム運動を読み解くには二通りの方法がある。第一のアプローチ方法は、19世紀末から20世紀の初頭にさかのぼって、その起源を探すことである。このアプローチ方法では、新イスラミズム(政治運動として)とパンイスラミズム(とくにJamal ad-Din al-Afghaniのグループ)のかけ橋をすることが試みられたが、多くの研究者はこのトピックを過度に一般化した。おそらくこれには二つの理由が考えられる。ひとつは彼らが、エジプトが今世紀初頭からのイスラム運動の中心地であったと考えていることである。またもう一つはエジプトにおけるムスリム同胞団が非常に早い時期に始まったイスラム運動で、パン・イスラミズムの始まりと時間的に近く、この事実が結果的に彼らに混乱を招いたということであるレズラジィ,1997,pp.8-14。。

第二のアプローチ方法は、現象の動態的構造的な分析である。この分析では現象の歴

史的側面と内的な構造の分析を重視する。現象の歴史的起源を探す第一のアプローチ方法では、その現象に歴史的な正統性を与えることにつながりかねない。第二のアプローチ方法では、現象を歴史的文脈においても研究するが、同時にある現象自体を他の現象から独立したもの、そしてその現象独自の秩序や構造をもつものととらえる。第一の方法は現象間の歴史的な連続性を重視するため、たとえばイスラム運動はパンイスラミズムから連続した現象であると理解されたのであった。

しかしパン・イスラミズムは、まずなにより文化的、政治的、イデオロギー的な運動であった。ただしこれは組織された団体の形はとらなかった。また一国にとどまらず、エジプト、トルコ、インド、中央アジア、モロッコなどにまたがる普遍的な運動であった。その形態は、パン・イスラミズムを構成する人々はすべてインテリで、いわゆる一般大衆は含まれておらず、これがパンイスラミズムにとって大きな力を与えた。中央アジアとインドの例のように、ある政治運動のイデオロギー的バックグラウンドとして、パンイスラミズムが使われることがあったが、これはパン・イスラミズム自体の超地域的性格や政党の形をとらないことと矛盾するものではない。それに対して、新イスラミズムはまず政治運動であった。したがってパン・イスラミズムとは違って、国単位の運動で、オスマン帝国崩壊後の現象である。パン・イスラミズムはオスマン帝国の最後の時期の現象であり、その政治的問題意識はそもそも国民国家の形成に対する抵抗であった。つまり、新イスラミズムは国民国家の枠内での運動であり、確かにいくつかの運動間の協力は見られたものの、各々の運動の独立は歴史的な事実であった。ただしその思想を他国にも移植しようとした初期のムスリム同胞団や、イラン革命を移植しようとした初期のホメイニ師は例外であるレズラジィ,1997,pp.8-14。。

現在、政治的な場におけるイスラム運動の新しい傾向としてインターネットによる国境を越えたコミュニケーション(CMC- computer-mediated communication )があげられる筆者は現在プリンストン大学国際関係論講座と共同でCMCと世論形成研究のプロジェクトを進行中である。。

パンイスラミズムは、原則的にこの運動をウスールに基づくイスラムの理論を革新する(イジュティハード)ものと考えていた。また変化に対して非常に保守的なイスラムの伝統(タクリード)を批判した。パンイスラミズムのもう一つの側面はイスラム世界、キリスト教世界、帝国主義といった文明圏の対立に根差している面である。

19世紀末エジプトにおいてサラフィーズムとナショナリズムが分離した経験は、植民地主義や政治改革に対する闘争をナショナリストの重要問題とし、宗教的、道徳的な問題をサラフィーズムにとっての重要問題とした。エジプトはこの二つを合流させるにはナassan al-Bannアを待たなければならなかった。

モロッコにおけるイスラム運動の歴史的正統性については、三つの解釈がなされている。第一の解釈は、モロッコのイスラム運動をエジプトのムスリム同胞団の拡大形態とみる。第二の解釈は、モロッコのいわゆる「サラフィズム」(フランス保護領期のAllal al-Fasiイスティクラール党の設立者。独立運動の指導者であり、国民主義的サラフィーヤ主義者であった。

やMohamed Ibn al- ヤArbi al- ヤAlawi独立運動左翼に近い立場をとった。

など )と独立後のイスラム運動(`Abd al-Bアrオ az-Zamzami独立後のモロッコでは個人的にダーワを行い、政府批判を行う傾向があったが、彼はこのような流れのフェズにおける例である。

[1] 、`Abd al-`Azオz  ben as-Saddオq など)から発展したものと考える。第三の解釈はイスラーム関係の集団(スーフィー教団、イスラム文化関係の協会、 Jamaヤa  at-Tabligh wa ad-Daヤwa ila Allah, イスラム学生協会など)をイスラム運動とみなす見方であるTozy  1984;私市 1994. 私市正年氏は、『中東アナリシス』の「モロッコ・モーリタニアの章」517ページにおいて「1970年代初めから『イスラーム青年同盟』運動の中心的担い手で、そのリーダーであるヤーシーン(小学校の教師)やアブデルクリム=ムティイ(中学校の教師)は多くの同士を集めることに成功した」と述べているが、ヤースィーンは、ムティイともシャビーバ・イスラミーヤとも政治的に協力したことは全くない。また同氏の『国際問題』1994年6月(No.411)掲載の「マグリブ諸国のイスラーム主義運動- 社会的背景と組織の実態」の40ページで、「イスラーム青年」を、アブドゥ・アル・カリーム・ムティイが「イスラーム青年による宣教集団(Jam ヤiya al-Da ヤwa lil Shabiba al-Islamiya)」から分かれて結成した組織、としているが、これは「ジャマイーアトゥ・アッシャビーバ・アル・イスラーミーヤ 」と「ハラカトゥ・アッシャビーバ・アル・イスラミーヤ」の関係を混同した一例といえよう。

独立後、いわゆるサラフィストは政党のメンバーとして、あるいは体制側の宗教スタッフとして政治に参加した。しかし両者とも「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」である国王のもとで、いかに国家イデオロギーを維持してゆくかという問題と、保守派と次第に重要な地位を占めるようになったフランコフォンの官僚たちとの間の均衡をいかにとるかという問題に直面した。

イスラム運動の活発化は、政党と政府の間の妥協がおこなわれるようになった時期と一致している。国民政党によるほぼすべての改革の試みが失敗に終わった頃である。

他のアラブ世界のイスラーム運動とモロッコのそれを比較してみられるもう一つの相違点は、モロッコ国王の地位の特殊性に由来する。モロッコの国王は、自らを「アミール・アル・ムーミニーン」と位置付け、ウンマとシャリーアの擁護者として宗教的な言説をおこなってきた。また国王はシャリーフでもある。これらの要素は、体制とイスラム運動との対立を宗教的な解釈と適用に限定した。アサド大統領がバース党の綱領として世俗的なものを掲げたシリア、ナセル大統領は国家社会主義を国家イデオロギーとして推進したエジプトなどとは、おのずから異なる[▼中川 1996]。

ヤースィーンは他の従来のイスラム運動と違って、マシュリクのサラフィーヤやイスラム運動に自らの運動の歴史的正統性を求めなかった。そのかわりにモロッコ史にそれを求め、Muニammad b. ヤAbd al-Kabオr al-Kattアni (▼6 H1290年生。ケッターニー教団の長で、1909年スルタン、アブドゥル・ハフィーズによって処刑された。)やヤAbd al-Karオm al-Khattアbi(▼7スペインによる植民地化に対する抵抗運動の指導者で、リーフ・イスラーム「共和国」を樹立した。)の思想や活動のなかにその正統性を見い出した。これはヤースィーンがマシュリクの他のイスラム運動との歴史的関係をもつことや運動の概念の取り入れを拒否することを意味するのではない。しかしマシュリクに全面的に依存してしまうのではなく、

独立を保ち、あくまでも対等の立場を保持したままでおこなったのであった。ヤースィーンは自らをMohammed ben ヤAbd al- Kabオr al-Kattアni、ナassan al-Bannア、Sayyid Qutb に続く第四番目のMusliニ(革新者)と考えた。しかしこのようなSayyid Qutbに対する尊敬にもかかわらず、彼のジャーヒリーヤの思想を批判し、捨てるに至った(▼8現在のムスリム社会やその社会政治システムを描写する「ジャーヒリーヤ」の概念に関しては、次の文献を参照。[al-Mawdケdオ 1977; Qutb  1979:88-89;Qutb Jアhiliyat…] 。ヤースィーンもクトゥブらと同様に「ジャーヒリーヤ」の概念を用いて、現在のムスリム社会を不信心者の集団と批判している。この点に関してはヤースィーンの以下の文献参照。[Yassin 1973:3-4, 37-41, 96-98, 470-471]. しかしヤースィーンがal-Fiqh al-ナarakオの理論を形成したことが事実であったとしても、彼は 1970年代にas-Shabオba al-Islアmiyaが展開したジハードの理論を極論とみなし批判的である。)。

 

 

3 集団におけるメンバーの社会化システム

(1) 社会化の教育システム:「預言の道(al-Minhaj   an-Nabawi)」

もし「公正と善行の集団」が地下活動をおこなうことがなければ、あらゆる者に活動参加の門戸を開くことはなかったであろう(Yassin  1989: 21-22; Majala  al-Jama`a 1980. Annee 1,  No 4) 。

「公正と善行の集団」は、メンバーを一般メンバー、幹部、長に分け、前二者からJund al-Allah (神軍) を構成している(Yassin  1989: 55-65, 128-134.)  。

メンバーは、Usra(家族) とShu’ba(支部) において活動をおこなう。運動に参加を希望する者はまずUsra に行き、Nakibの推薦があればNasir (支持者)となることができる。一般メンバーとなるには、さらにNuqaba as-Shu’ab(支部長)の同意が必要である。Naqib Usraとなって新しいUsraを監督するにはさらに長い期間を要する(Yassin : op.cit) 。

集団の基幹をなす単位はal-Usra である。Yassinは様々な機会に次のような発言をしている。「運動内部の結束の強さは、運動の基礎単位である強い家族的紐帯に左右される。」

しかしこの「家族」は、メンバーがそれぞれ所属していた本来の家族より結束が固く、より複雑である。後者では両親、兄弟姉妹がおり、生活に必要な様々なものが提供される。前者の「家族」は、西洋的価値観が中途半端に入ってきたことにより現在の中東の家族では失われてしまった心理的、知的、精神的パートナーシップが与えられる。

実際、「公正と慈善の集団」でのUsraモデルは、機能的に拡大家族である。メンバーは毎日およそ4時間を共に過ごす。彼らは共に祈り、勉強し、あらゆる私的・公的な事項を相談しあう。互いに信頼しあい、保護しあうのである。彼らは祝日を共に祝う。さらにメンバーの年齢が近いことが、一般の関係にありがちな世代間のギャップを感じさせない。シニア・メンバー(必ずしも他のメンバーよりも年上であるとは限らない)は、「公正と慈善の集団」内で権威を有する(Abdessalam Yassin: al-Minhaj an-Nabawi, pp.58-61)。

Usraの活動拠点は主にal-Huma(昔からの「地区」)である。ここでは若者の社会生活の大半が営まれている。Usraは、’Awlad al-Huma(Humaの若者たち)の社会・経済的レベルや年齢層が類似しており、同じ学校に通い、共通の趣味を持ち、宗教的な意味での同様の社会化を経ていることなど近隣の絆が強いことをうまく利用している。

メンバー間の関係はある特殊な形の個人的交換を表象している。つまり、二人以上の社会・経済的レベルと年齢の似通った個人がShuba(同胞)の関係に入り、「社会化」のプロセスを経て、集団に統合される。メンバー間、そしてshu’baなど他のより高いレベルの組織への忠誠と支援は、新メンバー・幹部間の関係が信仰とシェイフ・ヤースィーンへの親近感にのみ基づいていることから、非常に強力である(ibid., pp.78-80, 89-101)。

数回にわたっておこなったフィールドワークの結果(1996夏、 1997夏、 1999夏)、組織内部の階級(「家族」―支部―「家族」の長の委員会 ―支部長委員会―地域委員会―全国執行委員会 など)を昇ったメンバーほど、メンバー間の連帯感が薄れ、逸脱の危険が高まる。もし団結に組織のパフォーマンスを高める効果があるとすれば、それはより高い生産性を生む規範を通してなされる。実際この結論によって、より一般的な集団の団結のなかで特別なケースであることを示している。つまり特別な文脈に関係する規範に対するより高度な忠誠である。

しかし、’Abd as-Salam Yassinの提案する、様々な社会的背景を持ったメンバー全員に対するより継続的な教育システムの原則は次の三つである。

1:教育的社会化(at-Tarbiya)

2:宗教の刷新と自己信念の再生(Tajdid ad-Din)

3:組織への帰属(at-Tanzim)と障害(ここでは政治的変化―Iqtiham al-

‘Aqaba―を意味する)の克服 (Yassin, ibic., pp.30-37,51-53,13-16)

 

これら三項目は、規則的な実践と以下の十資質を身につけることによってのみ到達される。

1-同胞と共同体意識 as-Suhba wa al-Jama’a(Yassin  1989:122-145)

2-ズィクル Az-Zikr(Yassin : 1989:146-168)

3-誠実さ As-Sidq (Yassin  1989:169-192)

4-犠牲 al-Bazl (Yassin  1989: 193-210)

5-知識 Al-‘Ilm(Yassin  1989:211-229)

6-労働  al-‘Amal (Yassin  1989:230-258)

7-良い行ない as-Samt al-Hasan (Yassin  1989:259-286  )

8-慎重さat-Tau`da(Yassin  1989:287-316  )

9-経済観念al-Iqtisad (Yassin  1989: 317-359   )

10- ジハードal-Jihad(Yassin  1989: 360-459. )

 

 

(2) 社会化プロセス:メンバーの教育

以上のような個人的な義務に加えて、Usra やShu’aba のメンバーは、学校、大学、モスク、文化センターなどで開催されるセミナー、イスラーム関係書籍の展示会、『クルアーン』勉強会、スポーツ大会、討論会などのイスラーム文化運動に参加し、自らも組織する義務がある(Yassin  1989:43-51)。

Jama’a において、ヤースィーンが提案した、スーフィー教団に類似した教育法法が実践されている。

ヤースィーンの教育プログラムは、メンバーがこれまでの慣習的な信仰や身体イメージ(Rezrazi Elmostafa, op.cit.)を変えることを目的としている。

ヤースィーンが雑誌に発表したメンバー教育のスケジュールは以下のとおりである(「公正と慈善の集団」   without date)。

 

日常的な活動 [ Yassin  1995:30-35]

fajr(夜明け)の礼拝の一時間前、メンバーはal-witr an-Nabawi(預言者ムハンマドのおこなった礼拝)を11回行い、朝の礼拝の約一時間半後から夜明けまでの間にZikr(祈祷)、Du’a ar-Rabita(Jama’aの「兄弟」のためにおこなう祈願)、『クルアーン』の読誦、イスラームの勉強をおこなう。また ad-Zuha(義務ではない、午前の礼拝)の礼拝を欠かしてはいけない。

毎日5回の義務の礼拝の5分前と5分後にZu’a(神への祈願)をおこなう。ar-Rawatib (通常の礼拝に付属した義務ではない礼拝)の礼拝を一日5回の礼拝の前後に行う。

毎日300回Salat ‘ala an-Nabi(預言者ムハンマドのための礼拝)をおこなう。金曜日は、午前0時よりSalat ‘ala an-Nabiをできるかぎり長くおこなう。毎日3回15分の「Lア Ilアh illa Allah(アッラーのほかに神はなし)」というジクルを、各人の好きな時間に行う。ただし、状況が許せば、各礼拝の前後に行うのが好ましい。

毎日、就寝前に神に「告白」をし、罪を犯した場合は二度と繰り返さないことを誓い、許しを請い、翌日よりよいことをおこなうことを願う。就寝時も神名を唱えながら床に就く。

義務の五回の礼拝、特に朝の礼拝はモスクで集団でおこなう。

 

週間的な活動

*毎週月曜日と木曜日の断食(A.Yassin, Risalat Tazkir:op.cit, also A.Yassin:al-Minhaj, ibid.pp.50)

*Usraでは週に二回、各二時間程度の集会を開く。これら二回の集会の集合時刻ははメンバーの都合によって決めてよいが、相談と集団礼拝のための集会を別に一回開かれる必要がある(op.cit.)。

 

月間の活動

月に一度、一つのUsraがピクニックの形で集会を組織する。この集会には所属するShu’baの他のUsraも参加する。必要経費は、組織したUsraが負担する。早朝に開始し、日没の礼拝で終了する。この集会での主要な活動は、礼拝、ズィクル、ダーワである。併せて、セミナー、討論、講読、スポーツなど文化活動がおこなわれる(op.cit.)。

 

以上の教育のほかに、自分でイスラムについての勉強を続けること、自己批判、Jama’aのなかで特に親密なメンバーをもつこと(as-Su’ba)、Jama’aとの永続的な接触、先輩後輩間の指導は、メンバーが守らなければならない基本的な事項である。

またメンバーが学生の場合は学校の勉強を行なうことも、宗教的な活動と同様に優先されるべきであるとヤースィーンは述べている[Yassin e 1995:33]。

ダーワはモスク、学校、大学、文化活動をおこなう協会、労働組合、政党、女性運動、スポーツ活動の協会、職能組合でおこなわれる。このような場で行われるイスラム活動は公的活動と秘密活動と両方である。as- Shabiba al-Islamiyyaとは違って、ヤースィーンの組織ではジハード(秘密)とダーワ(公開)の活動はそれぞれ独立はしていない。(Yassin  ,1972:473-490;  Yassin  1989: pp.367 -368 ;   )

各々の活動を行うのはJama’aの積極的に活動をするメンバーである。メンバーを統制、指導するのは次の組織である。メンバーシップ管理の事務局(メンバーの新加入、組織の人的資源の管理)、内外のコーデイネート管理の事務局(情報の配布、管理、内外のグループ間の関係管理)、教育委員会(会議、セミナー、読み物の選択、購入、配布)、政治委員会(現状分析、情報収集、 Jama’aの政治的決定の実行、国の問題に対するイスラム的解決について研究)、教育組織委員会(大学におけるダーワや教師を統制する)、活動方法の組織、計画、発展の方法をあつかう委員会(国家とJama’a間の問題、組織内の政治的、経済的、活動、長期計画)、情報委員会(世論とJama’atのメッセージの知らせる)、財政委員会(参加者の収集、Jama’aへの寄付、ザカート、経済投資計画の立案)、観光委員会(教育キャンプやスポーツキャンプの運営)、慈善と医学委員会(孤児院、失業、貧困問題など)、結婚と巡礼資金(結婚やメッカ巡礼を希望するメンバーを経済的に援助する)(Yassin  1989: 74-77  ) 。

 

教育のカテゴリーについて次の四点が指摘できる。

1-UsraはJama’aの最下部組織であるが、同時に最も基本的な組織である。Murshid al- ‘Am を含むすべてのメンバーがUsra に所属している(Yassin  1989: p. 43  ) 。

2-上述の諸活動を実行して初めて、メンバーは「仲間」(As-Suhba) 、ズィクル(Az-Zikr ) 、「言行一致」(as-Sidq )の諸段階を経た正式なメンバーとして認知される。(Yassin  1989:  122- 132) 。

3-Jama`a の組織構造そのものも、『クルアーン』と預言者の伝統に触発されて構成されている。つまりイスラーム的目的を達成するためには、組織そのものもイスラーム的である必要があるという考えに基づいている(Yassin  1989: 55-57, 178  – 179   )。

4- ムスリムの人格形成:ムスリム同胞に対する連帯意識の育成、礼儀作法、文化的思想形成、経済能力の育成、強い信仰、正しい礼拝、時間観念、他人への思いやり、集団規律、克己心の養成(Yassin  1989: 137-145,  154-168, 179-192 ,   204-210,222-229, 245-258, 271-286, 300-316,  346-359, 438-469)。

 

 

4  「公正と慈善の集団」の組織構造

 

 

「公正と慈善の集団」の組織構造は、事務的な面では地域や都市によって権力分散型で、イデオロギー面では中央集権型である。

「公正と慈善の集団」の組織構造は以下の通りである(    Graph I )。

 

(Graph I)       The Jama’a  al-ヤAdl wa al-Ihsan  の組織図

 

 

Majlis al-Irshアd al-`ーm

 

*

Majlis al-Qutr at-Tanfizオ

 

 

Majlis al-Aqlオm

 

 

Majlis al-Jiha

 

 

Majlis  Nuqabアヤ as-Shu`ab ォ Majアlis as-Shu`ab

 

 

As-Shu`ba ォMajアlisNuqabアヤ al-Usar

 

 

Majアlis al-Usar ォ Al-Usra

 

 

Iqlim  は、この場合「地方」を意味する。しかし、カサブランカやマラケシュの場合のように大都市の場合は、 Iqlim がさらにいくつかの Shiha にわかれる。

Al-Amオr al-Murshid al-’Am   [Yassin    1989:  59-60]

Majlis al-Irshアd al-’Am  (7人) [Yassin    1989:  59]

al-majlis al-watanオ at-tanfizオ(国家執行委員長)によって統括されている。 この執行委員会のメンバー(40人)からなっており、彼等は組織のすべてのNakオbが参加する全国大会において選ばれる。この選出された40人がNakib  al-majlis al-watanオ at-tanfizオを選び、al-Amオr al-Murshid  al-ーmオrにその結果を提案し、al-Amオr al-Murshid  al-ーmオが認めれば正式に決定される[Yassin    1989:  62] 。

al-Iklオm(地方):al-Majlis al-Iklオmオ7名の町のNakib によって構成される[Yassin    1989:  62]。

al-jiha(地域):Nakib  al-Jihaによって統括されている。Majlis  al- JihaはNukabア` al-Manataqaによって 構成されている(町が非常に大きい場合はいくつかのjihaに分ける)[ Yassin    1989: 61-62]。

Majlis Nukabア` as-Shuヤbによって構成されている[Yassin    1989: 61]。

as-shuヤba(ブランチ):Nakib  as-Shuヤbaによって統括されている。Majlis as-Shuヤbaは 10名のNukabア` al-Usarによって構成されている[Yassin    1989:  58-59]。.

al-Usra(家族)[Yassin    1989: 58-60] 。

 

(Graph II)

 

 

Naqオb as-Shuヤba ( Murshid )

 

Majlis Irshad  as-Shuヤba

 

Majlis Nuqaba` al-Usar

 

Members of as-Shuヤba

 

al-Usra

 

 

(Graph III)

 

 

 

Nakib  Murabbオ

 

full Member

 

Member- Muhアjir

 

Member- Nasオr

 

 

 

 

 

 

Jama’a の長であるAmオr – Murshid al-’Am m は選挙によって選出される。その任務は(革命の間)運動を指導することであるが、決定は Majlis al-Irshアd al-’Am m への諮問(al-Mashケra)が必要で、最終決定はMajlis al-Irshアd al-’Am mの名において下される。

「公正と慈善の集団」 の組織の構成は、Ikhwアn Muslimオn 、スーフィー教団、そしてUsra/ Shu`ba  のなかにKhaliyya  を設置するなどの点で、共産党の組織構成に影響を受けている。共産党も  「公正と慈善の集団」 もKhaliyya を設置したが、後者はさらにUsraというカテゴリーを設置した。このUsra の設置は、  「公正と慈善の集団」 の三原則、al-Hub fi Allah (アッラーへの愛)、An-Nashiha wa as-Shura (助言と協議)、At-Ta`a (忠誠)を実現する必要からなされたと考えられる。

 

5 集団としてのアイデンティティー

(1) 名称

Jama’a という語は、J-M-‘を三語根とし「集まる、加わる」意の動詞から派生した名詞で「集団」を意味する。Ummah (ムスリム共同体)、つまり信者の集団を指す場合もある。この場合の信者の集団は必ずしも排他的な性格を有していない。

この点に関しては、マウドゥーディーの著書『カリフとムルキーヤ』が「バランス」のとれた説明をおこなっている。なかでもアブー・ハニーファとアブー・ユースフのもとでのfiqh(イスラーム法学)の形成過程を論じた章では十分な史料に基づいた分析がなされている。

Jama’aに関連した語としてあげられるのは、Jumua(「集まりの日」=金曜日) al-Masjid al-Jami’(金曜礼拝がおこなわれるモスク)などである。al-Masjid al-Jami’は、特に北アフリカやトルコ、そしてボスニアなどの「(ムスリム共同体のなかの)離れ小島」では、Jami’と略称される。

Min Tarikh al-Majalla(『雑誌の歴史から』)において、Jama’aの編集者は次のように述べている。「その名称の意味するところは何か。我々がJama’a al-Muslimin(ムスリム共同体)であることを主張するために我々の雑誌をal-Jama’aと名称したわけではない。我々は様々な人々に集まりを呼びかけ、互いに愛し合い、現実を認識させる集団である。そして、神の御慈悲によって、********」

「慈善と公正の集団(Jama’a al-Adl wa al-Ihsan  )」は、「(ムスリム)共同体の家族(Usra al-Jama’a)」(1981年~)、「(ムスリム)共同体の協会(Jami’ya al-Jama’a )」(1982年~)、「イスラーム的慈悲の集団(Jama’ a al-Khayriya al-Islamiya)」(1983年~)、そして「慈善と公正の集団(Jama’a al-Adl wa al-Ihsan  )」(1987年~)と 数度名称を変えた[Jama`a  al-`Adl wa al-Ihsan   1987].。このような名称の変化の時期を検討すると、まず名称の変化は成熟度、政治プログラム、組織の点で運動内部のダイナミズムと変化に関連しており、次にJami’ya al-Jama’aからJama’ a al-Khayriya al-Islamiyaへの変化は運動が1982年10月15日に非合法化された時期に名称変更されたことが指摘できる。

 

 

 

 

(2)スローガンAl-ユAdl wa al-Ihsan   の意味

ヤースィーンはal-‘Adl(正義)とal-Ihsan(善行・慈善) という二語を、運動の名称、ダーワの方法、そして運動の目的とした。ジャマーアの運動は正義であり、その活動において善行と慈善が実践される。ジャマーアが実現をめざす社会は、この二つの原則に基づいたものである。またジャマーアは、だれに対してもダーワにおいて「正義」を守り、イスラムの目的を実現するためにイスラム活動を「善行」でもって行い、人々には「慈善」の精神で接することを目指している。 [Jama`a  al-`Adl wa al-Ihsan   1987.] 。

Al-‘Adlとは、「公正であると感じる、公正に考える、公正を実践する」意である。’Adalaとは、倫理的、宗教的に完全な状態を指す’Adlの一側面である。’Adalaは法学的用語であるが、’Adlは神の御名のひとつであり、「判事」や「公証人」、さらに「(自己・社会・神の権利に)充実である」ことをもいみし、’Adalaより広い意味を有しているといえる。

つまり’Adalaは、Al-‘Adlの原則が社会・政治的に実践された結果にすぎない。従って’Adalaは法適用としてシャリーア(イスラーム法)の一部であり、’Adlはシャリーアの目的(Maqasid as-Shari’a)である。

結果として、’Adlは預言者ムハンマドのハディースにもあるように、「自分に他人がして欲しいことを、他人にし、そして自分が欲しないことを他人にもしない」ことであり、願望や望みまでも含んだ非常に広い意味を有した語である。

al-Ihsan  とは「美しいことを行なうこと」を意味する。ジブリールのクドゥスィーのハディース(神が、天使ジブリールを通して預言者に直接もたらしたハディース)によると、預言者はal-Ihsan  とは「あたかも目にしているように神に祈ることである。あなたに神が見えていなくても、神はあなたを見ているのだから」と述べたとされる(▼9 Saニオh al-Bukhari のハディース メ Bアb al-Iニsア メ による。)。

al-Ihsan  はhusn から派生した語である。husnは善良、あるいは美しくあることの質を示す。husnは、「良さ/良質/美しさ/楽しさ/調和/均整/望ましいこと」などを示し、その対意語はqubh(醜さ) またはsu’(醜さ/悪)である[Murata  and  Chittick  1994 :267-294]。

但し、al-Ihsan  は、khayr (良い)の同義語ではない。husn は美や魅力と不可分の善を意味するのである[Murata  and  Chittick  1994 :267-294]。

ヤースィーンによるとal-Ihsan  は、前述のジブリールのハディースに基づいてもちいているが、文脈に応じて様々な意味で使用している[Yassin    al-Minhaj an-Nabawi :  30-35, 114-118]。

‘Ibadatの場合、al-Ihsan  はニasana  (善行、対意語はsayi’a =醜行)からの派生語として使用されている[Yassin   1971: 12-14]。

「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起るどんな災厄も、あなた自身からである」(▼10『クルアーン』第4章第79節。)。

「善行をなす者には、それに優るものを与え、悪行をなす者には、彼らの悪行に応じて報いる」(▼11(11)『クルアーン』第28章第84節。)。

経済や仕事に関する場合、al-Ihsan  は動詞Ahsana (完全に最善を尽くしてあることを行なう)から派生した意味で使用される。

社会生活に関する場合、al-Ihsan  は「慈善」の意味で用いられている。

しかしこの語の一般的な意味は、形容詞husn から派生した語として『クルアーン』で使用されている用法であり、またアッラーの名称の一つであるAsma’Allah al-Husna に表われている。

ハサン・アル・バンナーの哲学に従って、ヤースィーンはat-Takhaluq bi Asma’ Allah al-husna (理想的な完全を示す基準として神の御名を求めること)は信仰する者に対して与えられるものである[Yassin   1989 :148-149 ]。預言者に従い、信仰に生きることで、人間は神の御名を自ら実践し、美しいこと全てに参加するようになる。従って、husnaは神の属性と人間の根本の両方を示している。来世において経験する幸福が次のように表現されている。

「誰でも信仰して、善行にいそしむ者には、良い報奨があろう」(▼12『クルアーン』第18章第88節。)。

 

 

(3) The 「公正と慈善の集団」  の社会・政治的アイデンティティ

「公正と慈善の集団」 の社会的アイデンティティを議論するとき、過去20年間のモロッコ社会の社会経済的変化と切り離して考察することは不可能である。1990-1991年、そして1997年の調査に基づいて、運動幹部の養成に関してどのような変化がみられたのか明らかにする。

1981年から1991年、The 「公正と慈善の集団」  は社会・政治的地位を確立し、既に社会的地位にある人々が新メンバーとして運動に参加した。(1975年の1%から1991年の62%へ。)同じ時期、at-Tabayyun の運動はリーダーシップやイデオロギーの不在から凝集力を失い、消滅した。as-Shabiba al-Islamiyya のメンバーは、Abd al-l—s Benkiran が設立した、at-Tajdid wa al-Islah(▼13(13)当初ジャマーア・アル・ジャマイーヤ・アル・イスラミーヤは原則を次の4つに定めた 。 Ben Kirアn. A:al-Jamアユat  al-Islアmiyya wa al-Fiqh al-Haraki; (1988年3月18日付けal-Islアh 紙.  第15.号 )Royal Cabinet 宛のBen Kirアnの書簡(1985年11月29 日)、内務省宛の書簡(1986年3月17日)および国王宛の書簡(1987年10月12日)。

1:クルアーンとスンナに基づいたスンナの教義に沿ってダーワを行うこと。

2:破壊的なイデオロギーやイスラムに反したイデオロギー(マルキシズムや革命的な イスラミズムを示唆)を攻撃すること。

3:イスラム的な観点から、教育に参加し、モロッコの世論を刺激すること。

4:地下活動を拒否し、モロッコの法律にかなった合法的な範囲でのみ活動を行い、

あらゆる形態の暴力行為に反対し、あくまで改革主義を原則とすること。

ジャマーア・アル・ジャマイーヤ・アル・イスラミーヤの二つの声明(1985年7月31日, 1988年3月18日)、ジャマーア・アル・ジャマイーヤ・アル・イスラミーヤ  から国王に送られた書簡(1985年11月29日 , 1987年10月12日),  内務大臣あての書簡(1986年3月17日),ベン・キーラーンと宗教大臣との会談(1990年2月20日)によって、  ジャマーア・アル・ジャマイーヤ・アル・イスラミーヤの特徴は以下のように結論づけられる。

このジャマーアはモロッコの法律を尊重している。また暴力を拒否し、対話を望んでいる。イスラム、王制、マーリク派の教義、領土保全、公用語としてのアラビア語の尊重と防衛を主張し、外国や外国の組織とはまったくかかわりがない。 ジャマーア・アル・イスラーフ・ワ・アッタジュディードの構成に関しては、メンバーは中流階級や都市富裕層(プチブルジョワジー)出身者が多い。 このジャマーア・アル・イスラーフ・ワ・アッタジュディードの事務局は、新聞社の社長であり、教師、私立学校の所有者であるベン・キーラーン 、技術者一名、医師一名, 大学教授3名、公務員一名からなっている ( Ben Kirアn. A:al-Jamアユat  al-Islアmiyya wa al-Fiqh al-Haraki; (1988年3月18日付けal-Islアh 紙.  第15.号 )Royal Cabinet 宛のBen Kirアnの書簡(1985年11月29 日)、内務省宛の書簡(1986年3月17日)および国王宛の書簡(1987年10月12日)。) やThe 「公正と慈善の集団」  に合流したり、1980年代以降革命テロリズムに訴えて政治変革を実現するため地下活動を主流とした運動に参加した(▼14(14)青年イスラーム運動の言説がモロッコの世論に訴えることができなかった原因は、西サハラ問題と王制に対するポジション、そしてオマル・ベンジャルーン暗殺容疑であった。オマル・ベンジャルーンは社会主義者(USFP)で労働運動(CDTーConfederation Democratique du Travail )のリーダー。モロッコの社会主義運動と労働運動の「良き時代」を導いたリーダーというイメージを今もって持たれているRef : Rezrazi El.Mostafa: Min al-Jアmi`a al-Islアmiya ilア al-ナaraka al-Islアmiya – Qirアヤa Juwアniya li Binアヤ al-Huwiya fi al-Fikr al-siyアsオ al-Islアmオ al-Mu`アsir. Edition Afrique-Orient, 1999. Casablanca.)  )。

at-Tabligh wa ad-Da`waの元メンバーの多くは、「公正と慈善の集団」  に参加した。これは、「公正と慈善の集団」  がat-Tabligh wa ad-Da`waと同様、教育面を重要視したことが原因と考えられる。

メンバーの社会・経済レベルは、イスラーム運動によって異なり、それぞれの運動の政治的アイデンティティに深く関わっている。例えば、at-Tajdid wa al-Islah は選挙への参加や支配者層の宗教活動を容認するなど、モロッコにおける、いわゆるポリティカル・ゲームで穏健な立場をとるようになるが、これはメンバーの多くが中流階層に属する運動の自然な変化であろう。社会経済的立場と政治的立場の同様の関連性は、青年イスラーム運動においても認められる。メンバーの多くは、学生、労働者、移民労働者、中学校・高校の教員、失業者で、これらの運動の政治的立場は急進的である。「公正と慈善の集団」 は、リーダーやメンバーの社会的立場が非常に多様であるという点において、エジプトのムスリム同胞団やモロッコのIttihad al-Ishtirakiと同様である。

Jama’aのメンバーは基本的に都市周縁部の中流および下層階級の出身者である。最近はあたらしく都市化された地域の中流・下層階級の者も多い。メンバーの大半は若年層である。特にモロッコ南部および北東部の村落からメンバーを得ることに成功した。

モロッコにおける他の宗教集団と比較すると、Jama’aのメンバーの年齢層は幅広いと言える。また他の集団と比較して、Jama’aは都市部と都市部以外の地域の両方からのメンバー獲得に成功している。この特徴はおそらく次の二つの理由によるものであろう。第一にJama’aの言説に多様性があり、多くの人にとって受け入れやすいものであることと、ザーウィヤ、政党、労働組合、協同組合など多くの言説と類似性があることであろう。第二の理由は、幹部たちの帰属ネットワークである。例えばヤースィーンは現在サレーに住んでいるが、以前はマラケシュに長く住んでいた。彼の故郷はモロッコ南部のスース地方のハハである。アブデルワヒド・ムタワッキルは、サフィーからラバトに移った。彼の故郷はアブダである。ムハンマド・アッバディーもサフィーからラバトに移った。彼の故郷はモロッコ東部である。このように幹部たちは都市部と都市部以外の地域の両方に帰属しているわけである。

幹部たちの「移動」について、1999年6月ムタワッキルと会見したとき、幹部の多くがラバトに移り住むことで、既存政党にはない中央分散化という特徴をうしなってしまうのではないかという筆者の質問に対して、彼は筆者の意見に同意したが、Jama’aの責務が多くなったためラバトとサフィーを日帰りせざるを得ないような状態が続いたため、ラバトに移ったと説明した。しかし、家族と共にラバトに移動した後も、彼はサフィーを頻繁に訪れ、当地でのこれまでの紐帯を維持している。

集団にとってメンバー獲得の問題は重要である。Jama’aのように急成長を続ける集団もあれば、Shabiba al-Islamiyaのように急速にメンバーを失い、生き残ることさえ困難になった集団もある。またat-Tajdid wa al-Islah や al-Badil al-Hadariのように、両極端の間をゆく集団もある。つまり設立されてから、メンバーがコンスタントに、緩やかに増加しているのである。両集団とも1980年から1985年に解散されたが、これはメンバーを失ったためではなかった。

政治的に緊張した時期には、イスラーム運動は単に政治集団としてのみではなく、政治の場における行為主体の一つとみなされた。Mohammed Tozyは、「湾岸戦争によって、大衆の政治的動員の可能性が明らかになった。イスラーム主義者が実現したのはこの可能性である。1991年2月3日のイスラーム運動によるデモの参加者のうち40~70%を、Jama`a al-Islamiya と al-Adl wa al-Ihsanのメンバーが占めていた。参加者総数は、複数の資料によると30~70万人で、モロッコにおけるイスラーム運動史上、三度目のデモであった。一度目は1990年5月、ヤースィーンの集団によって組織されたラバトの控訴裁判所前での座り込み、二度目は1990年7月、モロッコのパレスチナ支援協会によって組織されたデモであった。1991年5月1日もまた、イスラーム主義者が多く参加し、参加者総数の50%以上を占めていた。そのためカサブランカのフィダー広場に集まっていたイスティクラール党やUSFP党のリーダーたちは、プログラムを短縮し、広場を離れ、反デモ勢力がデモ参加者を追い散らすに任せざるを得なかった」(Mohammed Tozy, Religion and the strakes of power in Morocco, in MEA Journal, No.1 1997, p.30)。

共同体のメンバー総数とは何か。「総数」という語はここで何を意味するかによる。一般に利用できる資料では、いくつかのデモや政治的「ショー」に参加したメンバーの数を示す。デモや「ショー」の時は、毎回数十万人あるいは数千人である。実際に参加しているメンバーと偶然非常に短期間のみ、いわば誤って、参加してしまったメンバーを区別する必要もある。しかし一般的に全国で7万人ほどが、実質的なメンバーであると推測される。

Jama’aに参加した者の大半は、自らの決断に満足したが、そうでない者たちも当然いた。毎年様々な理由でJama’aから離れるメンバーがいる一方で、他のイスラーム運動から新たなイスラーム主義者として「移民して」くる者もいる。離れて行く者のなかには、私的な生活を犠牲にしてまで多くの時間をJama’aで費やすことが出来なかった者や、Jama’aの政治的急進主義や、Jama’aの教育プログラムなどにみられるスーフィー的色彩に不満を抱いた者もいる。またヤースィーンの完全主義に同化できなかった者もいる。特殊な場合では、何らかの誤った理由からJama’aに参加し、後に集団を離れた者もいる。

一般的には、Jama’aを離れた後も運動と何らかの形で連絡をとったり、別のイスラーム運動に参加する者が多い。しかしイスラーム運動そのものに完全に反対の立場をとるようになる者は稀である。

Jama`aが順調にメンバーを増やしていることは容易にみてとれる。「公正と慈善の集団」は成功したグループである。そして彼らの「成功」は瞬く間に世間に広まった。自分たちで書籍、カセットテープ、ビデオなどの出版活動を行い、オンライン出版もおこなっている。また新聞に取り上げられることで広い購買層を有している。オンライン出版物へのビジターは、毎週+89〈-450〉(つまり89~450名)で、全ファイルの内23%がダウンロードされ、ビジターのうち53%は15分以上閲覧している。

 

 

 

 

「公正と慈善の集団」ホームページへのビジター数

(2000年1月半ばから2月末:新国王への書簡を送った直後の時期)

 

 

 

Graphic

 

 

また一般出版物の多くは売り切れとなっている。これはJama`aの出版物に対して発禁処分が何度も出されていることを考慮すればなお、いかにモロッコの出版市場で競争力を有しているかが伺える。購入された書籍がコピーされ、さらに

多くの人々の手に渡っている。特に発禁処分を受けた書籍のコピーは、10万部を超えるといわれるほどである。

なお、本論文で使用した資料も、大半が発禁処分を受けたものであるが、これらはメンバーから直接筆者が譲り受けたか、コピーを購入したか、あるいは1980年代にヤースィーンに近いメンバーから譲られたものである。

Jama`aの出版物の購入者の多くは、メンバーではないがJama`aに共感を抱いているか、少なくとも国内・地域レベルにおいて政治的主体としてイスラーム運動を認めているのである。

 

 

 

(4)「公正と慈善の集団」のアイデンティティ

 

「公正と慈善の集団」は自らの運動を、1930年代ハサン・アル・バンナーが率いたエジプトのムスリム同胞団と同じスンニー派の運動として次のように紹介している。

 

『われわれはアッラーを神として、ムハンマドを神の使徒、預言者として信じるムスリムの一集団である。クルアーンとスンナにわれわれの目的と満足を見い出し、超越的な導きとして、また法として使う。現在ムスリム社会で適用されている世俗的な法律は、真実と正義を曲解させるものである。』[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

 

「公正と慈善の集団」は自分たちだけが真実を知っている者とは考えていないが、社会、法、価値観の堕落に対する「救済者」として、大衆の前に自集団を提示する。

 

アッラーのシャリーアによる本来の道を見失っているさまざまな社会範疇に属する人々にも関心がある。  アッラーにできる限りの努力を傾け、知恵を傾けて物事を本来あるべき姿にもどすことを約束する。アッラーの意思を満足させるという目的だけを実現させるために、あらゆる合理的な方法を用いる。[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

「公正と慈善の集団」は唯一のイスラーム運動ではないが、数多くある正しいイスラーム運動の一つである。しかし、「公正と慈善の集団」はモロッコの既存のイスラーム運動(地下活動を中心におこない、宗教運動というよりも政治運動としての色彩が濃かったShabiba Islamiyaと、純粋な意味での宗教運動で政治には無関心であったTabligh wa Da’wa )を批判し、その批判によると結果的に彼の集団「公正と慈善の集団」だけが、正しいイスラーム運動という理解される。ただし、いくつかのイスラーム運動では預言者ムハンマドのハディース「Jama’aを親指と小指を張った長さだけでも離れて死んだ者は、ジャーヒリーヤ(非ムスリム)の状態で死んだのと同じである」のJama’aを「(ムスリム」社会」ではなく「(自分たちの)集団」と理解されているが、「公正と慈善の集団」とそのリーダーが、このハディースを同様に理解しているかどうかは文献的には不詳である。

 

 

ダーワを真面目に誠実におこなう集団は非常に少ない。多くの集団が抽象やユートピアに溺れている。その結果彼らは社会から孤立してしまう。他の集団が政治の汚れに溺れている。そのために宗教を個人的な政治的利益を得るための道具として使う。しかし彼らは政治家としてもアッラーを満足させることもできない。つまり政治家にもダーワをおこなう人にもなれないのである。われわれのジャマーアは新旧いずれの運動、また国内外いずれもの既存の運動のコピーではない。われわれのジャマーアにはほかの集団の誤りの責任はなく、ほかの集団にはわれわれのジャマーアの誤りの責任はない。われわれは国内外のなにものに対しても依存することを避ける。[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

 

しかし「公正と慈善の集団」は、アルジェリア内戦勃発以前から、社会に対しても体制に対しても目的達成のために成員が暴力をふるうことを許さなかった。

(注:但し、Iqtiham al-‘aqaba 障害がなくなった状態やQauma (イスラーム的に)建設的な大変革の状況において暴力を使用できるかどうかについては、ヤースィーンは明言を避けている。)

 

 

われわれはあらゆる形の暴力も否定する。暴力によって失うものは暴力によって得るものよりもはるかに大きい。暴力によって得たものは長続きしない。われわれはシャリーアを尊重し、適用するイスラムの集団と対話し協力することを拒否しない。われわれはいかなるスーフィーのタリーカとも関係がない。しかしスーフィーのタリーカをわれわれの敵とも味方とも考えていない。またほかのイスラム集団との対立は避ける。われわれはイスラムのウンマにおけるいかなる人も非ムスリムと分類することは否定する。

[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

合法的な活動許可を得るために、「公正と慈善の集団」は政治ゲームの規則を受け入れ、民主主義、政治的多様性と憲法を受け入れている。しかし、ヤースィーンが最近出版した民主主義についての二冊の著作(*)では、民主主義とシューラーが明確に区別されている。ダーワをおこなうために「仕方なく」民主主義を受け入れるが、ダーワが目的とするところは別にある。それはシューラーに基づいた市民社会が実現したムスリム社会である。ヤースィーンは用語の違いにのみこだわっているのではない。民主主義とシューラーの違いは論理と源泉の違い(民主主義=世俗的=人間がつくった法律の基盤、シューラー=イスラーム的=神がつくった法律の基礎)というエピステモロジー的違いである。

 

 

原則として民主主義は否定しない。大衆が自己主張するために基本的な権利である民主主義、言論の自由、集会と結社の自由を実現するために批判をする。(中略)体制に誠実さと明晰さをもってシャリーアの適用を要求する。何世紀ものあいだウンマは多くの王によって統治されてきたが、彼らは法律を私的な利益のために適用してきた。しかしシャリーアを廃止する勇気をもっていた君主はなかった。モロッコの憲法では、はっきりとイスラムは国家の宗教であると述べている。しかしシャリーアの適用は麻痺してしまい、世俗的な法律にとって代わられているため、この条項は実効的ではない。

政治的、労働組合的な多様性に関しては、イスラム的統治形態にいたる一時的な民主主義の一側面として政治的多様性を受け入れる。しかし同時に政治と宗教を私的な利益や支配階級の利益に利用するものを批判する。[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

 

イスラームから離れた社会を再建し、真の道を歩んでいない社会で苦しむムスリムを日常的な抑圧、貧困などから救い擁護することを、「公正と慈善の集団」は集団としての行動計画に組み入れている。

 

大衆は支配され、抑圧され、疎外され、不正義、貧しさ、無知、疎外によって抑圧されている。彼らはフィトナのなかに埋没してしまっている。政党や労働組合はこれらの感情をもて遊び、大衆の希望を利用し、彼等を現実から遠ざけている。その結果、大衆は道を見失い、すてばちになり、イデオロギーと生活の悪条件のもとで指導者と改革をおこなうものに対して信頼がおけなくなっている。そして、道徳的な価値基準がなくなり、弱肉強食(「ジャングルの法」)が支配的になった。このような状況のなかで、われわれの責任は大衆の権利を守り、彼等の権利を侵すものに対して抵抗することと、人々を再教育し、真実と神の道を知らせることである。この責任のためにはわれわれの命までも犠牲にする用意がある。[Yassin   1974: 460-476; al-`Adl wa al-Ihsan , without date: p 3-7; al-`Adl wa al-Ihsan , 1987; al-`Adl wa al-Ihsan , in Mujamaヤ al-Baニrayn: Ramadan 1990]

 

 

Yassin によればイスラーム的な方策のみが現在ムスリム社会が直面している不調和を解決することができる。ヤースィーンは、ムスリム世界に関する考えを、他の価値体系との関連で次のように述べている。

『イスラム共同体は現世には存在しない。ダール・アル・イスラム(イスラムの家)はフィタン(「分派」を意味するフィトナの複数形)に分かれ、小国家の集合体のようになっているが、このような小国家の国境は本当のムスリムは承認しない。しかしこの国境は現実に存在しているものであり、ナショナリズムとよばれ、われわれの現在と未来を支配する主観的な想像である。』(『アルジャマーア』, 論説 ,  No 5, p 13 )。

 

『ムスリム共同体のフィトナの状態を終わらせるというイスラムの目的を刷新するには、ムスリムを個人的にイスラムを実行することから遠ざけ、信仰の実際的、科学的な段階に彼らを導く。発展途上で、分離してしまっているムスリム社会を自己満足と独立と強さの段階に移行させる。そしてこれらの社会を一つにし、ジャー

ヒリーの組織への依存を終わらせる。それは指導者の役割を保証し、イスラムのメッセージを遂行するためである。』(『Majala al-Jama’a   1980. no. 5: 45-46,』

 

ヤースィーンはダーワについて次の三種類に分類した。ジャーヒリーモデルに対するもの、ジャーヒリーヤ組織に対するもの、ムスリム社会のフィトナに対するものである。(『Majala al-Jama’a   1979. no. 1』

 

 

 

 

 

 

 

(graph VII:マフトゥーン社会とジャーヒリー社会との境界)

 

 

 

ジャーヒリー価値体系

 

(非イスラム社会の人々)

ジャーヒリー社会

 

ジャーヒリー世界

 

 

(非イスラム社会の支配階級 )

ジャーヒリー政治システム

ジャーヒリーモデル

 

ムスリム世界

(ムスリム社会の政治エリート)

ジャーヒリー体制

 

(ムスリム社会の世俗的イデオローグ)

ジャーヒリー価値体系 推進者

 

ジャーヒリー支配階級

 

 

(ムスリム社会の人々)

マフトゥーン社会

 

マフトゥーン世界

 

 

イスラム運動

 

 

ムスリム集団

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このようにヤースィーンはサイイド・クゥトブのジャーヒリーヤ概念を超えている。ヤースィーンは次の三つの概念を明確に区別をした。三つの概念とはジャーヒリーヤ・モデル(西欧)、ジャーヒリーヤ組織(ムスリム世界の支配階級)、ムスリム社会のフィトナである。そして、この三つの状況に対するダーワの方法と立場はイスラム運動によって異なる。ヤースィーンはすべての人をイスラムの境界から追い出してしまうのではなく、自分のジャマーアをイスラム社会における一つのイスラム集団と考え、唯一のイスラム集団とは考えていない。

ヤースィーンは現在のイスラム世界をジャーヒリーヤではなく、フィトナと考えている。したがって彼はエジプトなどのイスラム運動にみられがちなファナティズムには陥らないのである。というのはジャーヒリーヤとはイスラムの外に存在するもので、ジャーヒリーヤの状況においてはジャーヒリーヤに対するジハード(暴力を含む)が許されるからである。ヤースィーンはジャーヒリーヤという語をまず第一に非ムスリム社会である西欧社会を定義するために上述のように用いている。ジャーヒリーヤ・モデルに対するイスラミストの責任は、ジャーヒリーヤ・モデルによるムスリム社会支配に対する闘争、ジャーヒリーヤ・モデルの拡大主義に対する闘争である。第二にムスリム社会を支配する支配階級、世俗階級を定義するために用いている。ジャーヒリーヤ・システムに対するイスラミストの責任は、シャリーアの麻痺に対する闘争と、ジャヒリーヤ・システムをイスラムのもとに再構成することである。ジャヒリーヤ・システムとジャーヒリー・モデルに対する闘争は、ダーワと対話と再教育から始まるが、ジャヒリーヤ・システムとジャーヒリー・モデルがジャマーアに対して暴力でもってすれば、防衛する必要があり、明かにイスラムを侮辱するような行為が行われれば、ジャマーアはジハードを宣言する必要がある。イスラム社会におけるフィトナに関するジャマーアの責任は、人々をイスラムに立ち返らせることであり、社会悪に対して闘争をすることである。またイスラム的生活様式を広めることである。

6 モロッコ世論の操作主体としてのYassin

アブドゥ・アッサラーム・ヤースィーンは1928年に、モロッコ南部に生まれた。彼はベルベルで、彼の家庭はもともとスース地方からきた貧しい農民であった。彼は自分自身について次のように述べている。

『私はアッラーのしもべである。漁業と農業を営むものの息子であり、

貧しさと物質的欠乏の中で育った。クルアーンを学び、これはあとで. わたしの愛読書となった。しかし、すぐに私の学んでいた学校の宗教教. 育よりももっとひろい知識を求めることに成功した』

彼はアル・ムカタール・アッスースィーal-Mukhtar as-Susiが創設した小学校で学んだのち、15歳のときマラケシュのベン・ユースフ校で4年間中高等教育を受けた。1947年ラバトの師範学校に入学。1949年エル・ジャディーダで小学校教師となる。1949年10月にカスバの小学校に移る。1951年10月マラケシュのムハンマド五世高等学校付属小学校の教師となる。1952年10月ムハンマド五世高等学校のアラビア語教師となる。1955年10月カサブランカの初等教育の教育委員会の委員となる。1957年10月文部省のカサブランカ支部の教師を統括する部署の責任者となる。1959年5月ベニー・メッラールの地方初等教育委員会の委員となる。1959年10月マラケシュの師範学校の校長となる。1959-1961年、彼はフランス、アメリカ、レバノンなどで開かれた多くの会議やセミナーに出席した。1963年マラケシュにおける文部省の教育法委員長となる。1963年10月カサブランカで高等教育の教育委員会の委員となる。1965年10月から1967年3月までラバトの教育委員養成センターの所長となる。1967年5月文部省の高官に任命されるが、病気になり、その職を遂行することができなかった。1968年文部省を代表して、チュニジア、アルジェリア、ニジェールで開かれた会議に出席した。

彼は、1972年から1998年の間、「公正と慈善の集団」 のal-Murshid al-` Amm として多くの本、パンフレット、二つの新聞(al-Fajr とas-Subh)、機関誌を出版した。彼の出版物は以下の通りであるが、前内閣によって発禁処分を受けた。

*al-Islアm bayna  ad-Daヤwa wa ad-Dawla(1971)

* al-Islアm Ghazan (1972)

*al-Islアm  aw at-Tケfアn(1974)

*la R思olution a lユheure  de  lユIslam(1980)

*Pour un dialogue avec les 四ites occidentalis仔s (1980)

*al-Minhアj an-Nabawオ ( 1982. 1st Edition)

*al-Islアm wa Taニaddオ al-Mアrksiya al-Lオnオnオya (1987)

* al-Ihsan 講座;Kitアb ar-Rijアl(1989)

*Muqaddimアt fオ al-Minhアj ( 1989)

*al-Islアm wa al-Qawmiyya al-ヤIlmアniyya(1989)

*al-Minhアj  an-Nabawオ ; Tarbiyya wa Tanzオm wa Zaニf( the 4th edition .1989)

(同書をカセット40巻で発行)

*Nazarアt fi al-Fiqhwa at-Tアrオkh(1990)

*Shazarアt – Poetry-( 1992)

*Miニnat al-ヤAql al-Muslim (1994)

*ナiwアr  maヤ al-Fudalア’ad-Dimケqrアtiyyオn(1994)

* Risアla Tazkオr (1995)

*Fオ al-Iqtisアd: al-Bawアヤit al-Imアniya wa az-Zawアbit as-Sharヤiya (1995)

*Risアla ilア at-Tアlib wa at-Tアliba (1995)

*Tanwオr al-Mu’Am inアt (1996)

*As-Shケrア wa az-Zimケqrアtiya (1996)

*Al-Manzケma al-waヤziya (1996)

*ナiwアr al-Mazオ wa al-Mustaqbal (1997)

*ナiwアr maヤ Sadオq Amアzighオ (1997)

*Islamiser la Modernit* (1998)

新聞や誌:

*al-Jama’a  誌を創刊(1979)

*as-Subニ 新聞を創刊(1983)

*al-Khitアb新聞を創刊 (1984)

 

1995年以降、旧西独、フランス、アメリカ合衆国で三つのホームページを開設した。さらにアメリカ、スペイン、ベルギーに三つの非公式ホームページが開設された。これらのホームページの内一つは、al-Jama’a誌の新しいインターネット・バージョンのみを扱っている。

最近三十年間(1971年―2000年)のヤースィーンの出版物は、彼の言説戦略が多様性に富んでいることを示している。内容と形式から次の五つのカテゴリーに分類できる。

 

言説の種類

読者ターゲット

1-(a)Risalat Nasiha/メッセージ
政治支配者層

1-(b)Risalat Da’wa/メッセージ
学生、女性、ウラマー

2-Hiwar/対話

リベラルなエリート、社会民主主義者、

ナショナリズム運動、ベルベル運動

3-Naqd/批判

レーニン主義者、共産主義者、

世俗的パン・アラブ主義者

4-Tarbiya/一般教育

伝統的社会

5-Mafahim&Minhaj/

Jama’a幹部、アラブ世界のあらゆる
概念・理論

イスラーム主義者

(1)メッセージ(ar-Risalat)戦略

イスラームの伝統では、「メッセージ」は重要な意味を持つ。「メッセンジャー」(預言者)のみが神の「メッセージ」(啓示)を受けた。メッセージは選ばれた人間に啓示される神の言葉である(Akira Goto:Mohammed: A prophet or a Messenger – A paper in English submitted to the Conference of ISESCO on Orientalism, 1997, Morocco)。スーフィー教団であるクシャイリー教団の設立者たち(ar-Risalat al-Qushayriya,al-Matba’a at-Tijariya,1974, Beirut)やアブー・ハミド・アル・ガザーリーなどのスーフィズム哲学者にも、「メッセージ」との関連がみられる(Abu Hamid al-Ghazali:Ayuha al-Walad, Dar al-Gharb al-Islami)。後に、ar-Risalat(メッセージ)はNasiha(助言―多くの場合政治的意味での助言―)の概念と関連するようになる。ウラマーから君主に対する助言や警告などの書簡がar-Risalatとして記録されるようになった。例としては、17世紀のベルベル人聖者であったSidi al-Hasan al-Yusiがムーレイ・イスマイールに対して送った書簡、20世紀のスーフィー、シャリーフ、ウラマーであったムハンマド・ケッターニーがムーレイ・アブドュル・アジーズおよびムーレイアブドゥル・ハフィーズに送った書簡、そして1999年7月逝去した前国王ハサン二世に対してアブドゥアッサラーム・ヤースィーンが送った書簡などがあげられる。

「メッセージ」の性格は二つのカテゴリーに分けられる。一つは、慣習的社会における人々の日常生活の誤りを正すためのal-Inzar(警告)(Akira Goto, Ibid.)、もう一つは人々を神の怒りや復讐から救う良い兆し(Ibid.)である。スーフィーそしてウラマーとして訓練をうけた政治的に反体制を主張するヤースィーンは、当時のモロッコ国王ハサン二世に対して”al-Islam aw at-Tufan ; Risala Ila Malik al-Maghrib(『イスラームか台風か:モロッコ国王への書簡』)”という公開書簡を書いた。これはムハンマド・アルアラウィー・アッスレイマーンとアフマド・アルマッラフの協力により、1974年に出版された。書簡が国王や大衆の目に触れる前に当局によって発禁処分にされることを恐れ、彼らは6ヶ月かかって104頁におよぶ書簡を1300部印刷し、宗教学者、政治家、外交官、知識人、政党党首、地方の名士に送り、国王宛の書簡はマラケシュの知事を通して届けられた。

ヤースィーンは逮捕され、精神的に問題があることを理由にマルシーシー精神病院に収容された。この決定は公的な宗教権威であるシェイフ・アブダッラー・ガンヌーンが示唆したものである。その後、ハサン二世はヤースィーンを逮捕してから、預言者ムハンマドにヤースィーンを釈放するように警告されるという夢を幾夜も続けて見た、などの噂がまことしやかにささやかれた。筆者はこの噂をマラケシュ、サフィー、サレー、アガディールの町で耳にした。これら四都市は、ヤースィーンの運動が活動拠点としている町である。

ヤースィーンがハサン二世に送った書簡は非常に巧妙である。国王に宛てる書簡として必要な形式はすべて備えている。

 

アッラーの預言者の子孫、ユースフの息子であるムハンマドの息子、マウラーハサンへ。あなたに平安がありますように。モロッコにとって困難な時期は王権にとって最も困難な時期であり、そのとき「先祖から継承した王座」に座ることによって試された御方へ。あなたに平安がありますように(Abdessalam Yassin:Al-Islam aw at-Toufane, 1974)。

 

しかしこのような冒頭の挨拶文のあと、王の尊称すべてに対する批判を展開する。例えば、アッラーの預言者の子孫であることは、政治的コントロールの一部であることを批判する(Ibid. 1974,特に pp.91-104)。さらに、ヤースィーンは自らの力と正統性で国王に対抗しようとする。

まず、シャラフ(預言者ムハンマドの子孫であること)に関しては、ヤースィーンは自らもその系図に連なる者と主張した。

 

貧しく不幸なベルベルの息子は、栄誉ある家系であるイドリーシーの一人である(Ibid.ヤースィーンは『ベルベル人の友との対話』においても彼がイドリーシー・シャリーフであると述べている)。

 

次に、宗教的な称号である「アミール・アル・ムーミニーン(信徒の指揮者)」によってモロッコ国王はウラマーの長であり得るのだが、ヤースィーンはウラマーを「堕落した宗教権威」と描写し、宗教知識の修得に関しては彼がモロッコで第二の宗教教育機関であるマラケシュのベン・ユースフの卒業生であることを述べた。

 

(この土地の)(宗教)学者たちについて語るとき、彼らとの個人的に持った経験、接触、貢献に基づいて権威をもって話す。モロッコ(という極西の国)その地の若者、人々、公的機関にについて語るとき、私の27年間の教師、官僚、専門分析官としての経験に基づいて語る(Abdessalam Yassin: al-Islam aw at-Tufane, Ibid.)。

 

ヤースィーンは大衆に支持され、全国的に知られているという地位を彼自身に与えるような特徴についても述べた。つまり、「ヨーロッパ式の教育を受け、しかも真のムスリムであり、公的機関の高い地位についた教養ある人物」という点である。

 

私は西洋の外国文化を熱心に学んだ。独学であった。私の仲間たちは、この輝かしい若者に尊敬のまなざしを注いだ。そして私は独立した。教育の分野における宗教的権威としての道を歩んだ。若いとき、独立後の行政における堕落を目の当たりにしたとき古参の者たちを動揺させた(Ibid.1974)。

 

ヤースィーンは自らを、貧しい農民の家庭出身の「アラビア語を話す」ベルベ

ル人と紹介した。

 

私は逸脱した神の僕であり、ベルベル人農民の息子である。貧しく物質的に困窮した環境で育った。私はアラブ・ナショナリズムと私にとってのその真の重要性について書くつもりである。私は人種差別的で部族的なイデオロギーを求めてアッラーに避難場所を求めた。そしてこの栄誉ある系図が私に与えられ、神がアラブをイスラームの預言者(彼に平安あれ)を生んだ人々としたというアラブが好んでする考えを認識したのは、アッラーの御厚意である(Ibid.1974)。

 

次に、信徒の指揮者が、預言者の血統に属していることから有しているとする世襲の恩寵(バラカ)について、ヤースィーンはスンニー派のスーフィーであること、礼拝、そして禁欲生活を通して獲得した恩寵を所有していることを主張した(アル・ユースィーとスルタン、ムーレイ・イスマイールの対立に関するクリフォード・ギアーツの分析を参照。また個人的カリスマより優位にある世襲的カリスマに関するマックス・ウェーバーの議論参照。尚筆者は、これら両概念には生態的な人類学の影響が見受けられるため、「世襲的」ではなく「蓄積された」カリスマと、「個人的」ではなく「獲得された」カリスマという概念を提案したい)。

 

私はガザーリーと同様、スーフィズムに真実を見いだした。惨めな思いをしたりみすぼらしさを求めるためにここにいるのではない。アッラーの御厚意を求めているのである。アッラーは私を祝福し、神に従う人々の同胞意識から多くの知識を私にお教えになった。あらゆる恩寵は神のお陰である。あらゆる感謝は神に捧げられる。神こそが私にお教えになった御方であるから。(今もお教えになっている。)私はこれを公言する。というのは私のシェイフが三年前に亡くなった後、アッラーは、良き同胞意識のみを求める多くの弟子たちをわたしにお与えになった。シェイフの生前(彼の魂に神のご加護がありますように)、彼が死んだ場合は私が彼の息子や弟子たちを支えて行くよう依頼された。そして私はそうした。スーフィズムにおいて修行をする私の周りの者たちに、悪しき習慣が生まれるのを目の当たりにした。現世への愛と死への恐怖がザーウィヤの人々の胸に宿ったことに気付いた。私は、シェイフの真摯さや特に恵まれた資質にもかかわらず、いかに真の探求が歪んだ紐帯となったかを悟った(Abdessalam Yassin, op.cit.,1974)。

 

ヤースィーンは、自らがカリスマ的地位に挑戦していることをよく自覚している。自分自身をサイイド・クゥトブ、ハサン・アルバンナー、ムハンマド・ケッターニーと並ぶ20世紀を代表する人物であると考えている。「信徒の指揮者」に対しても、ムスリム世界の歴史上多くの人物が権威に対してとったのと同様の態度をとっている。先に例をあげた、スルタン、ムーレイ・イスマイールに対するアル・ユースィーの態度と類似しているのである。また彼の書簡について、それはあたかも神から為政者への、そして神の法については決して交渉しない神の僕からの贈り物であるかのように語る。

ヤースィーンは他の形式の「メッセージ」を、女性、学生、一般大衆に向けて書いている。しかしこれらの著作は、エジプト、シリア、レバノンなどのイスラーム主義者アブドゥルハミード・キシュク、ファトヒ・ヤッカン、サイード・ラマダーン・アルブーティーなど、あるいはより以前にハサン・アルバンナーやアブー・アルアーラー・アルマウドゥーディーが書いた数多くの文庫本の内容とあまり相違がない。

 

(2)対話の戦略

モロッコ内外の様々な範疇のエリートとの開かれた対話というスローガンのもとで、ヤースィーンはこれまでに次のようなテーマをカバーする著作を発表している。

 

・自由主義者との対話(” Pour un dialogue avec l’élite occidentalisée”,1980)

・民主主義者との対話(”Hiwar ma’a al-Fudalai az-Zimuqratiyin” ,1994)

・ナショナリストとの対話(”Hiwar al-Mazi wa al-Mustaqbal”,1997)

・ベルベル人の友との対話(”Hiwar ma’a Sadiq Amazighi”,1997)

・他のイスラーム運動との対話(これは1980年に発行されたフランス語の著作”La revolution à l`heure de l’Islam “と1979年から1982年に発行された”al-Jama’a”誌の1から5号に掲載されている。)

・スーフィーとの対話(彼の初期の著作”al-Islam Razan”と1999年発行の『イフサーン』誌の第一・二巻に掲載されている。)

 

以上のような言説戦略に加えて、ヤースィーンは世俗的パン・アラブ主義者とマルクス主義者・共産主義者を批判する著作を発表している。前者への批判は、1981年発行の”al-Islam wa Tahadi al-Qawmiya al-‘Ilmaniya”に、後者への批判は 1987年発行の“al-Islam wa Tahaddi al-Marksiya al-Lininiya”に見られる。

『過去と現代の対話』(”Hiwar wa al-Mazi wa al-Hizir”)において、彼は既存の主要政党(イスティクラール党、USFP,UNFP,LOADP,TALI’Aなど)がそのイデオロギー的正統性の根拠としているナショナリズム史との切り離しを狙った言説戦略を展開した。

モロッコのナショナリズム史について、ヤースィーンの理解の要点は以下の通りである。

まず、ナショナリズム史における主な伝説的人物の歴史的解釈をおこなった。主要な伝説的人物とは、スペインの植民地主義に対抗したリーフ戦争を率いたムハンマド・イブン・アブドゥルカリーム・ハッタービー、モロッコ独立の立て役者でありモロッコナショナリズムとサラフィーズムを確立したアッラール・ファースィー、北部モロッコにおいて民主主義独立党を設立したムハンマド・ハサン・アルワッザーン、UNFPの設立者であるアブダッラー・イブラヒーム、特に1950年代にフランスとスペインの植民地主義に対抗して武装抵抗運動を組織したムハンマド・ベン・サイード・アイト・イッダールとムハンマド・アルファキーフ・アルバスリーなどである。

ヤースィーンは既存政党と党員たちは、このような歴史となんら継続性を持っていないだけでなく、各政党の原則やスローガンは設立者たちが国の未来に抱いていた構想と関連性がないことを指摘した。

第二に、ヤースィーンはナショナリズム史の正統性を自分自身やモロッコのイスラーム運動のために利用しているのではないかと批判されることに非常に敏感である。彼の目的は、既存政党とナショナリズム史の乖離を明示することであった。ヤースィーンにとって、既存政党を設立した前述の人物たちはイスラームと、民主主義と物理的独立への信念に基づいた言説を展開した。彼はナショナリズム史のイスラーム的解釈を試み、独立のためのナショナリズムは、世俗的で堕落した人々の手に落ち、イスラーム的特徴を失ったにもかかわらず、大衆操作の必要からイスラーム的色彩のみを維持したときに、すでに死んだと結論した(これは『栄誉ある民主主義者との対話』(Hiwar ma’a al-Fudala’ ad-Zimuqratiyin)でヤースィーンが展開している議論である。この著作はナショナリスト政党が組閣政党になった直後に出版された)。

ヤースィーンはナショナリズムが堕落したときから、自らをナショナリズムに帰属させることを拒否したのである。彼は、体制や政党が世俗的であるという理由で批判しているのではなく、それらが大衆を引き入れるためにイスラームを利用していることを批判しているのである。政党や体制に対するヤースィーンの挑戦は、政党や体制の言説は世俗的内容に宗教的な色彩をあたえたものにすぎず、その一方で**の解釈の提示まで明確な態度を示すことはないという二点に集約される。

ナショナリズム史のいわばタブーに踏み込むことに成功したという意味で、ヤースィーンは世論操作をよく知った人物であるといえよう。また世論操作理論に関する拙論文で述べた「対面の乖離」と「遠隔からの関連」の両メカニズムを利用することで、ヤースィーンは他の政治主体に対抗する競争力を獲得し得たのである。ナショナリズム史と既存政党の繋がりを論じたとき、ヤースィーンは自分の運動を関連づけることに慎重であったが、結果的に自らの運動をナショナリスト史の堕落していない局面に帰属させることに成功したといえよう。

この著書に続いて、Yassinはマグレブにおける社会・文化・政治的な場における最も微妙な問題を扱った『ベルベルの友との対話』を発表した。Yassinは、ベルベル人が周縁的存在となっているのは、独立後の国家、都市ブルジョワ層出身の西欧的エリートによって支配されている国家の非イスラーム的な政策に原因があると述べた。しかし同時にベルベル主義者に対しても批判している。Yassinはベルベル主義者の反応は非イスラーム的な防衛的なもので、結局は西欧的エリートたちと同じであると考えた。

続く著書”Islamiser la modernité(『近代性のイスラーム化』)”(ヤースィーンの『近代性のイスラーム化』について, モロッコの革新政党や社会主義政党は「危険に注意せよ」という論説を発表した[Al Bayane  12- 06- 1998 ]。これはヤースィーンの著作が世論に与えた波紋のごく一例である。)では、モロッコ社会の多くの論点について議論を展開した。

ヤースィーンはアラン・トゥーレーヌ(Alain Touraine)による近代性の分析を検討しつつ17世紀からの西欧におけるモダニティーの創生について、近代性の誕生・国家の世俗化・宗教の周縁化は一体であると論じた。ヤースィーンは「押し付けられた近代性」を拒否し、二つのラディカルな提案をした。まず、イスラーム的規範からみて、またムスリムにとって受け入れ可能な近代性として、世俗主義から切り離した近代性つまり「現代性」を提案する。次に国際社会における関係(南・北、西欧・イスラーム世界、国連の改革、戦略的意図をもった援助など)の再構築し、イスラーム的観点から世界情勢を読み解くことを提案している。

本書のアイコンは、例えば「イスラームと近代性」、「イスラームと政教分離主義」、「抵抗:アルジェリアの例」、「パレスチナ:傷」、「知(サボワール)」、「書簡」、「所有すること(アヴォワール)」、「権力」などである。このように文化的規範、困難に直面している地域、いわゆるポストモダン文化におけるエピステモロジーの無秩序、個人と倫理の問題、世界秩序の問題、グローバリゼーション、資本主義の未来、共同体主義などを論じ、最後に国民国家、民主主義、憲法、人権など国家と権力の問題に立ち戻って論じている。

本書に対する反応は賛否両論であるが、いずれも大きな反響を呼んだ。それはヤースィーンの意見に賛成か否かを問わず、彼がモロッコの民族衣装であるジェラーバを身につけスーフィズムの世界に住みながら、国内外の政治・文化的変化に遅れるどころか、ときにポストモダンな知識人よりもよく理解し把握していることに対する驚きによるものであろう。

 

7 結論

以上、「公正と慈善の集団」の組織、組織内での教育システム、ヤースィーンの言説戦略などの分析を通じて、ヤースィーンの世論操作について考察をした。

ヤースィーンが、著作等を通じて打ち出した政治・文化プロジェクトの目的は次の三点に要約されよう。

1.政治的用語のイスラーム化:Yassinは「近代的な」政治用語に詳しい知識を有しているが、これは西欧的モデルと精神的・文化的・言語的に一線を画することによってイスラーム的アイデンティティを再構築する試みである。2.歴史のイスラーム化:これは前著『過去と現代の対話』に引き続いて論じられている。3.政治的ゲームのイスラーム化:これまで出版された著作やインタヴューと同様、『近代性のイスラーム化』も、モロッコにおいてあらゆる政治主体を巻き込んだ議論をおこす結果となった。近年、ヤースィーンは『 過去と現在の対話』、『ベルベルの友との対話』、『近代性のイスラーム化』などの出版によってモロッコの政治的な場において重要な地位を占めることとなった。これらの本がベルベル問題、女性問題、民主主義問題などに関する著作とみなされ、マス・メディアや中立的あるいは敵対する知識人たちによる論争を引き起こしている。つまり、国家や政党がマス・メディアを操作しようと懸命になり、またヤースィーン自身は幽閉され世論形成に公的に関わることを禁止されているにもかかわらず、彼はオピニオン・リーダーとなり得ているのである。

Yassin は、彼の立場を操作し、先人の理論の二番煎じとならぬよう、彼は既成の、特に世俗的理論において用いられた修辞を使用することを拒否した。そして彼はアル・フィクフ・アル・ハラキー(運動的なフィクフ)の新しい理論を作った。そして、イスラミストの政治的な言説を同定するための、あたらしい政治的な修辞を確立した。彼は参考文献として、『クルアーン』、アブデル・カーデル・アッジラーニーなどスーフィーの文献、アル・イマーム・アッシャティビーによって書かれた『マカースィド・アッシャリーア・アル・イスラーミーヤ』などファキーフの文献、アル・ガザーリーなど宗教学者の文献を使用し、サイイド・クゥトブやハサン・アル・バンナーなどイスラミストの文献なども、多大な注意を払いつつ、使用した。

彼独自の修辞のうち、重要なもののうち、いくつかをここで紹介したい。

第一群:

– イマーマ(指導権)

– アル・ジャマーア・アル・ムーミナ(まだ権力を持つに至っていないイスラム・グループ)

– クゥウワ・イクティハーミーヤ(アル・ジャマーア・アル・ムーミナのうち、すでに組織化しており、権力闘争の準備がでできているうえ、人々からの支持も得られているグループ)

– アッタルビーヤ・ワ・アッザフフ・ワ・アル・ジハード(教育と戦列とジハード:「預言者の道に沿ったヒラーファ」を実現するための必要事項)

– アッダーワ・ワ・アル・カウマ(ダーワと革命:ヤースィーンは「革命」を指すのに「サウラ」という用語の使用を「世俗的」用語として拒否している)

-イクティハーム・アル・アカバ (障害を乗り越えること:ヤースィーンにとって「主観的な障害」と「客観的な障害」の二種類がある。前者は、運動の組織化をしっかりと整備するまで、後者は権力を得るための闘争の際の障害を指す)

– アル・イフサーン・ワ・アル・アドル・フィー・アッタンズィーム(組織についての善行と公正:ここに個人の教育も含まれる)

-アル・イフサーン・ワ・アル・アドル・フィー・アッダーワ(ダーワについての善行と公正)

-アル・イフサーン・ワ・アル・アドル・フィー・アッザフフ・ワ・アル・カウマ

(戦列と革命における善行と公正)

第二群:

–  アル・ムルク・アル・ジャブリー(人々の権利を取り上げ、力によって人々を服従させる王権)

– アル・ラーイキーヤal-laヤikiya(「世俗主義」を意味する「イルマニーヤ」の代わりにヤースィーンが用いる用語)

-タウバ・インキラビーヤ (急進的な悔悛:新しいメンバーをジャマアーアに認めるとき、ある統治者を認める代わりとして要求するタウバ。「自分はムスリムである」という言葉だけでは不十分で、このタウバを行なった上でのシャリーアの適用を求める)/ タウバ・ジュズイーヤ(部分的な悔悛):日常的なタウバ。ムスリムは何かの間違いを犯したとき、このタウバをしなければならない)

– アッタウバ・アル・インキラビーヤ・ワ・アッタンシア・アル・フィトリーヤ(急進的な悔悛とイスラム的な社会建設)

– アル・ジャマーア(普通は「集団」と訳されるが、イスラム的には、「アフル・アル・ジャマーア・アル・スンナ」という意味が含まれる。)

– アル・グラバー・アル・ワーリスーン( ある社会の中で、異質な人々であるが、ヒラーファを受け継いでいる人々)

-アル・ムジュタマア・アル・マフトゥーン(イスラム社会でありながら、シャリーアに従っていない社会)

– アン・ニザーム・ジャーヒリー( ジャーヒリーヤの政治体制:これはムジュタマア・アル・マフトゥーンの指導者層を指す)

–  アル・ムジュタマア・アル・ジャヒリー(ジャーヒリーヤの社会:非ムスリムの社会で、当然のことながらシャリーアには従っていない社会)

–  アン・ナマウザジュ・アル・ジャーヒリー(ジャーヒリーヤ社会の指導者層)

 

第三群:

– アル・フィクフ・アル・ファルイ (部分的なフィクフ:日常的なフィクフ)

-アン・ナワーズィル(「部分的なフィクフ」によって形成される「ケース」)

-アル・フィクフ・アル・クッリー (総和的なフィクフ)—アル・アフカーム・アッシャライーヤ(「総和的なフィクフ」によってなされるシャライの法判断で、法律の形式をとる)

-マカーシド・アッシャリーア (シャリーアの目的)

– アル・マサーリフ・アル・ムルサラ(フィクフが規定していず、時代によって変化するウンマの権益:このようにテキストが不在の場合は、ファキーフがマカーシド・アッシャリーアに基づいた「ウンマの権益の原則」から アル・マサーリフ・アル・ムルサラを導く)

–  アッシャリーア(シャリーア:イスラームの世界観を規定するもの)/ シャラア(シャラア:イスラーム法)/ アッタシュリア(シャラアを現実の社会に適用するための手続き)/ フィクフ・アル・ジナーヤ(イスラームの刑法で、ヤースィーンによれば、これはシャラアの小さな一部分である)。

 

1999年12月、ヤースィーンはモロッコの新国王ムハンマド六世に対し新たな書簡を送った。この行為によって、「公正と慈善の集団」は再び困難に直面することとなった。特に国王交代直後の変動期であり、世論は大きな関心を寄せている。

世論研究の観点からは、新国王にあてられたこの書簡によってヤースィーンは自らの

運動によってさえも管理されない存在であることがわかる。絶対的権力に関連して言えば、ヤースィーンは運動内で、al-Murshid al’Am、al-Amir、シェイフという地位にある。この場合ムハンマド・アル・バーシリー博士(al-Jama’aの設立者の一人であったが、ヤースィーンに対する不満から、Majlis al-Irshadのメンバーをやめるに至った)による議論(ヤースィーン一人に依存することなく、集団としての意見を持つべきである)も考慮に入れなければならない。

彼のスーフィー的傾向に対する批判はJama`a  al-`Adl wa al-Ihsan  の活動当初からあった。しかし近年、特にグループ内の批判派がJama`a  al-`Adl wa al-Ihsan  を去り、新聞等で批判を行なっている。客観的には、上述のような対立をJama`a  al-`Adl wa al-Ihsan   の転換点と判断することは困難である。しかし社会は「破滅的な状況」を避けるために、ヤースィーンを正当な構成要素として認めざるを得ないであろう。

ヤースィーンが書簡を送ったのは、ハサン二世が逝去した直後であった点、この時期は多くのイスラーム運動は現政権ユースフィー内閣に協力的な態度を示した点、Shabiba Islamiya と集団第二の地位にあるKamal Ibrahimが浮上してきた点などを考慮に入れた場合、運動の将来について他の解釈も可能であろう。

他のイスラーム運動と比較して、「公正と慈善の集団」は、組織が非常によく組織されており、出版物が豊富で、スローガンを超える世界観を有している。さらにヤースィーンを中心に強力なリーダーシップを築いた。

失業、貧困などにより今後モロッコの社会状況は悪化する可能性があるが、「公正と慈善の集団」はそれを予測するが故に現在は将来の状況変化に関する発言は控えている。

またヤースィーンは現在72歳である。この年齢はすでにモロッコの平均寿命を越えており、彼の没後「公正と慈善の集団」が凝集力を失ってしまうのか、これまでの勢力を維持できるのかは注目されるところであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

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(雑誌)

– al-Furkan:カサブランカ唯一のイスラミストグループ機関紙

– al-Jamaユat :Jamaユat al-ユAdl wa al-Ihsan機関紙

– al-Majalla al-Maghribiyya :隔週発行の政治文化雑誌(筆者は編集委員の一人であった)

– al-Mujahid:Jamユiyyat as-Shabiba al-Islamiyya 機関紙

– al-Mujtamaユ:クウェートのイスラム運動機関紙

– al-Muslimun:エジプトのムスリム同胞団機関紙

– an-Nadhir:シリア人のユIsam al-ユAttar(ドイツ在住)のイスラム運動機関紙

– as-Saraya:al-Mujahidin  al-Magharibat機関紙

(新聞)

– al-ユAlam:Istiqlal 党機関紙(筆者はこの新聞のジャーナリストおよび編集委員として、1989-1993年勤務した)

– al-Islah:Jamaユat al-Islah機関紙

-al-Ittihad al-Ishtiraki:USFP党機関紙

– al-Khitab:Jamaユat al-ユAdl wa al-Ihsan機関紙

– al-Masar:at-Taliユa党機関紙

– Le Matin du Sahara:モロッコの政府系日刊紙

– Le Monde:フランスの日刊紙

– lユOpinion:Istiqlal党機関紙

– as-Subh:Jamaユat al-ユAdl wa al-Ihsan機関紙

– at-Tariq:at-Taliユa党機関紙

(本論文中では、使用した資料について、出版元、著者名などの詳細に言及していない箇所があるが、これは倫理的観点から、発禁資料を提供してくれた筆者への信頼と彼等の安全のために、言及を控えた。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Jアhiliyat al-Qarn al-`Ishrオn. Dアr as-Shrケq, without date..

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`Abd as-salアm Yassin

Al-Mujaz fi at-Ta`rオf bi Jama`a  al-`Adl wa al-Iニsアn. 執筆年不詳。

`Abd as-salアm Yassin

Jama`a  al-`Adl wa al-Iニsアn  (a pamphlet on the adoption of the slogan al-`Adl wa            al-Iニsアn by the Jama`a  ). 2nd zu al-ナijja 1407/September 1987

`Abd as-salアm Yassin

作成年不詳  Al-Islアm bawn ad-Da`wa wa ad-Dawla.

`Abd as-salアm Yassin

1995.   Risアlat Tazkオr. Matbケヤアt ad-Dアr al-Baydア`.

Sachiko Murata and William C. Chittick ,

1994  The Vision of Islam,  Paragon House, New York

 

 

(参考資料)

ヤースィーンによって1987年に設立されたアル・アドル・ワ・アル・イフサーンの活動史について述べたい。

 

1979年2月:『アル・ジャマーア』(雑誌『集団』)が創刊。

1980年3月:『アル・ジャマーア』第5号が発禁処分。

1981年8月:『アル・ミンハージュ・ナバウィー:タルビーヤ・ワ・タンズィーム・      ワ・ザフフ』出版。この本の中で、既存のイスラム運動についての評      価をして、将来への展望を述べた。

1981年9月:ウスラ・アル・ジャマーアを組織。

1982年:『アル・ミンハージュ・ナバウィー:タルビーヤ・ワ・タンズィーム・ワ・     ザフフ』を40巻のカセットのかたちで出版。

1982年7月:『アル・ジャマーア』第10号が発禁処分。

1982年9月:ジャーミア・ アル・ジャマーアが合法化許可を申請。

1983年2月:上述の申請拒否される。

1983年4月:ジャーミア・アル・ジャマーア・アル・ハイリーヤが合法化許可を申請。     その綱領の中でこの組織がイスラム運動であることを明記。

1983年11月:『スブフ』(『朝』) 紙を創刊。創刊号に論説を書いたことで第2号 が     発禁処分となり、新聞は発行停止となった。

1983年12月:上述の『スブフ』紙の問題でヤースィーンが逮捕される。

1984年1月:(マラケシュなどの都市で学生や市民によるデモがおこなわれる。当局      によって介入。)

*『アル・ヒターブ』紙が創刊されるが直ちに発行禁止となる。

*運動の最重要人物の一人であるムハンマド・アル・バシリーとその       他 10名の運動員が逮捕された。最初の裁判では8カ月から2年の求刑       がなされたが、上告し、3カ月に減刑された。

*運動の重要人物であるアル・ガニミー・サイード5年の服役。

*ヤースィーンの裁判が始まる。傍聴席は運動員たちであふれた。普       通は裁判に出席する当局側が欠席。

1984年2月:*ファタハッラー・アルサランが他の運動員とともに逮捕された。彼ら       は裁判をされることなく40日間の服役。

*ヤースィーンの裁判は続けられ、ヤースィーン欠席にもかかわらず       第二回法廷が 開かれる。この法廷に傍聴に来た人々のうち72名が逮       捕される。

1984年3月:ヤースィーンの第三回法廷が開かれるが、ヤースィーンはまた欠席。第二回同様傍 聴していたもののうち80名が逮捕された。

1984年5月:ヤースィーンは第四回法廷で2年の求刑と5000デイルハムの罰金が課せられる。

1984年7月:ムハンマド・アル・バシリーがモスクで説教をし、聴衆によって200

本以上のカセットに録音された。

1985年7月:『アル・ジャマーア』の16号が発禁になり、雑誌も出版停止処分とされた。

1985年12月:ヤースィーン釈放。

1987年2月:ムハンマド・アル・バシリーがモスクでの説教を禁止される。

1987年7月:『アル・イスラーム・ワ・タハッディ・アル・マルクスィーヤ・アル・レーニニーヤ』出版。

1987年9月:アル・ジャマーア運動は「アル・アドル・ワ・アル・イフサーン」を運動の名称とした。

1988年夏~:ヤースィーンの自宅が警察の監視下におかれ、ヤースィーンは自宅軟禁となった。

1989年1月:イフサーン 双書の第一巻『アッリジャール』(ヤースィーン著)

が出版。

1989年7月:『ムカッディマ・フィー・アル・ミンハージ』(ヤースィーン著)が出版。

1989年10月:『アル・イスラーム・ワ・アル・カウミーヤ・アル・イルマーニヤ』

(ヤースィーン著)が出版。ムニール・レズラズィ(ヤースィーンの娘ナディアの夫)が逮捕される。

*アル・ジャマーア運動に参加している学生たちが、カサブランカ、マラケシュ、テトワン、フェズなどの大学キャンパスで、コミュニストの学生たち(特にカーイディユーンのグループ) によって攻撃された。

1989年11月:*カサブランカの当局によってアル・ジャマーア運動のメンバー10名が逮捕された。

*タルダントで知事がアブド・アル・ガーニー・ウラード・アッサイヤドの自宅に武力攻撃。このとき特にアガディールやラシディーヤなどの「南のメンバー」の逮捕が30名にわたってなされた。

1989年12月:*タルダントの法廷で24名のメンバーのうち19名に対して1カ月から1年の求刑がなされた。

*アル・ジャマーア運動に参加している学生たちが、モロッコ全国の大学でインティファーダの記念日にイスラエルの国旗を燃やした。警察は学生を攻撃し多くの学生を逮捕した。

*ヤースィーンが住むサレーのサラーム地区で警察が武装し、ヤースィーンの自宅は家族も含めて全面立ち入り禁止となった。

1990年1月:*アル・ジャマーア運動の150名のメンバーが、ヤースィーンの自宅周辺をクルアーンを読み上げ、スローガンを叫んだ。

*シーディー・ヤヒヤー・アル・ガルブ村で7名が逮捕され、ケニトラの中央刑務所に送られた。

*ヤースィーンの自宅を訪れようとしたフランス人のムスリムが逮捕された。

アル・ジャマーア運動が非合法となった。

*ムニール・レズラズィがフェズで逮捕され、ケニトラの中央刑務所に送られた。

*方針決定の総合顧問たちがヤースィーンの自宅前で逮捕された。

*技師アブー・バクル・ベン・アッサディークが親戚のファタハッラー・アルサラーンの自宅を訪れたとき逮捕された。

*ヤースィーンの娘婿のアブドゥ・アッラー・アッシバーニーとアル・アルビ・アル・カレフ が逮捕された。

アル・カスル・カビールで12名がヤースィーンの自宅を訪れようとして逮捕された。

ケニトラの刑務所にとられられた上述の人たちの裁判が始まる。

ラバトでアル・ジャマーア運動に関係のある高校生と労働者が逮捕された。

ドイツ・ラジオ連合のドイツ人ジャーナリストがヤースィーンを訪れようとして逮捕された。

アガディールの裁判所で24名が裁判にかけられ、うち7名が4カ月から6カ月を求刑された。

1990年3月:方針決定の総合顧問たちが10000ディルハムの罰金と2年を求刑された。

1990年4月:ケニトラの刑務所に捕えられていた人々が、4カ月から2年を求刑され、それぞれ3000ディルハムの罰金を課せられた。

1990年5月:さきの3月に裁判された方針決定の総合顧問たちが上告し、再度裁判が行われた。その裁判が行われている間、3万から5万人のイスラミストが国会の前と裁判所のまわりで朝から晩まで座り込んだ。

1990年7月:方針決定の総合顧問たちが、裁判方法に異議を申し立て、裁判中に裁判所を離れ刑務所に戻った。

その後やりなおされた裁判で、10000ディルハムの罰金と2年を求刑された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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