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International Reserach Group for Transregional & Emerging Area Studies
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11:22 - 23 March 2000

王制の権威基盤と権力行使の形態: モロッコの政治システム再定義に向けて

hammoudi

Foundations of Monarchical Authority and Forms of Exercise of Power : Toward of Redefinition of the Moroccan Political System

Abdellah  Hammoudi * 

1956年の独立以来、モロッコという国民国家においていかなる形態の権力行使がなされ、その活力と継続性の源泉は何であったのか。最初の類型に関する疑問に必要とされる描写をすることは、第二の質問の用語を定義する助けとなるだろう。言い換えれば、権力の類型を定義することによって、その基盤をよりよく理解することが可能となる。支配の方法をより詳細に検討することで、その内的メカニズムをより正確に把握することができることは疑問の余地がない。ある権力行使の形態が永続的であることを説明する方法は二つある。一つは、それに従う者たちによって重要視される価値観の点から、もう一つは彼らの意思を導くのだが彼ら自身が気付いていない要因の点からの説明である。経済的利益による説明は第二の範疇に属し、正統性に焦点をあてた説明は第一の範疇に属する。

描写を客観視することは、いわゆる外的要因に対してのみでなく、ある種の権力行使を望ましいものに、あるいは単に支配される側にとって耐えられるものにする正当化のために意義がある。行為者が自覚していようといまいと、行為を正当化する作業は、個人と集団の行為の指針となる。ある行為に関わる全ての者の日常的経験を形成するのは、態度、感情、賭けである。つまりある行為によって生じる、果てしなく様々に揺れる評価から判断すれば、動機が明らかな場合は稀である。この最後の点に我々が同意すると仮定すれば、いわゆる客観的要因と、行為者本人によって表現される認識が、異なった認識学上の秩序に属するとみなすことはできない。そこで、行為を解釈するためにどの要因に焦点を絞るのか決めなければならないという問題に直面するのである。

このケースでは、特に独立以後のモロッコの場合、物質的利益に関するいかなる考察によっても、我々はある種の逆説に突き当たらざるを得ない。特権階級が物質的利益のために体制を支持していると仮定すると、なぜ多数派は搾取されているにも関わらず黙っているのかという疑問が残る。反対に大衆の態度を単に抑圧にだけ結びつけることは、思想や信念のシステムが一種の麻酔薬として機能していると考えても、疑問である。エリートと大衆は、富と権力分配の中枢により接近することを常に希求しているのではないか。もしそうならば、経済的利益のインパクトは、特権階級の行動だけでなく、特権階級には属さない大衆の行動をも説明するのではないだろうか。しかし、経済的利益の持つ意味、特に分配の中心とその長の神秘性、に関係する転換がおこる。

これはパラドックスだろうか。いやそうではなく、パラドックスはむしろ特権を受けていない人々が、常に期待を裏切られ不満を抱えているにもかかわらず、自らの運命が奇跡的に好転するのではないかと、期待を抱き続けていることである。しかし、このように希望をつないでいることは、宿命論や抑圧への恐怖によるのではない。定期的に都市を揺るがす暴動は、結果的に手厳しく抑圧されるのであるが、分配を担う中心が最も特権を享受していないものたちを救うことができるという信頼が裏切られたというフラストレーションから生じた怒りを露わに示している。

私の議論は、体制の政治的・経済的選択によって広がる格差と、「大衆」の正統性との間の明らかな矛盾を解決する一助となろう。特権を享受していない階級と、ポストコロニアル・エリートの両方がシステムをいかに認識しているかは、不平等発展のいわゆる客観的要因に関係している。エリートに好意的に分配をしている中心が、大衆にとって唯一のシステムを表象しているのである。

この繋がりは、モロッコの政治システムのイデオローグと、その注目に値する成功ぶりを説明しようとする観察者の両方の注意からそれてきたようである。本書では、現王制のイデオロギーを検証し、さらに独立以後の政治闘争を政治学者の眼で再考したい。その両方が類型の評価をするうえで役立つであろう。またその検証と再考によって、様々な経済的・社会学的構造にこれまでの常識的に付与されてきた指針とはちがったものを与える認識と信念という現象を概観することが可能となろう。

 

忠誠、カリスマ、君主による調停

アラウィー朝の君主と国民の関係は、神聖な勅令によって定められた直接的なものである。従って、ある種の構造的混乱を通して、彼らの目には合法的なものを構成している。(私はこの文脈においては、明らかにヘーゲルのいう一般意志の教義とは異なるものである神聖な権利という概念を使用したい。へーゲルによれば、王の神聖な権利とは非権利と見なされる。)このような考えを持つ者は、この根元的関係は、ウラマー、つまりイスラーム法の権威に代表された共同体が、彼らの選んだ新しい君主の即位に際して忠誠を誓うバヤアの儀式において表現されると主張する。この忠誠の誓いは、毎年ムスリムの断食の際に更新されるのであるが、民衆と王の間に非常に強力な紐帯を形成する。また、この誓いによって王は共同体をわけるいかなるクリバージュ(溝)に対しても超越した存在となる。

独立後のモロッコでは、いくつかの憲法が制定された。これらの憲法によって議会制度と国民によって選出された法律に基づいた議会という概念が導入されたが、君主の主導権は神聖な法によって保持されている。このような状況を生んだのは、もともと憲法が、特に1972年の憲法が、君主はなんら憲法の制限をうけることなく決定権と立法権を有すると定めていることである。世界的広がりをもつムスリム共同体の一部でありながら他とは分離したムスリム共同体であるとされるモロッコ国民の忠誠によって、王は「信徒の指揮者」となる。そのため、彼の権力は最高の指揮権を握ろうともくろんでいる者にとって二重の大きな障害となる。つまり王への攻撃は、犯罪であり冒涜である。この論理では両者は分かちがたい概念なのである。言い換えれば同時に神聖な法に対する冒涜そしてイスラーム的篤信を体現する人物を冒涜する行為となるのである。神は共同体は指導者(イマーム)なしでは存続しないと定めており、指導者となる者は神が選んだのであるという合意を皆に示している。これが、反乱のいかなる行為を制止するための最も初歩段階の論理である。

第二の論理は、当然に続く。忠誠の誓いは、強化されるべき合意に基づいている。共同体はこの神聖視される権威への忠誠を通して分裂を超越している。その結果、共同体は対内的・対外的の両方からの脅威に対して勝利しているのである。アラウィー王朝支持者は、市民社会と権力抗争を超越した宗教的立場を持つ指導者が不在であれば、町と田舎の人々、アラブとベルベル、ブルジョワジーと大衆といった分裂が国民国家を分解しかねないと強く主張している。神聖な権利を有した王制の支持者は、イスラーム法の特定の解釈と忠誠の特別の形態に基づいた前述のような論理を使い、支配をおこなっている家族の傑出した資質と彼らの業績を強調する。預言者の子孫として君主は先祖の奇跡、特に根元的「言葉」を取り戻し新秩序を形成する共同体の出現という奇跡の再来と民衆の目には映る。結果的にこの一族は、神の意志によって他の全ての人々より上位に置かれ、あらゆる違いを超越することができる。実際、歴史的にいえば常に国を救ってきた。まず16世紀に始まった貪欲なキリスト教徒たちに対する戦いにおいて、もっと最近では20世紀半ばの独立へのキャンペーンである「王と国民の革命」においてそうであった。さらに重要なことには、モロッコは、8世紀に最初のムスリム王国が建国されて以来、ショルファ(預言者の子孫)であることによって政治的・文化的実体として存在してきたのである。

この忠誠に関する理論によっては、教養あるエリートという階層に代表されるように、地方と都市の大衆が抱いている正統性の認識は明らかとならない。また一方でシャリーフという側面が皆の心に植え付けられる。つまりシャリーフが共同体の生き残りを賭けた困難な時期にリーダーシップを発揮するであろう事を誰も決して忘れない。そのためカリスマとシャリーフの行為は忠誠の理論に優先するのである。モロッコの近代史を通して、これが現実となってきたことは当然のこととして推測できる。今日、忠誠の具体的な表現と儀式への出席がメディアによって定期的に人々に報道されるという側面が付け加わった。認識という一点だけをとれば、一般の観衆に公開される服従の儀式によって君主は社会に超越したものとなる。しかしながら、シャリフィーズムがモロッコ国家の基礎であり8世紀以来その継続について責任があるという考えは、最近になってみられる観点であり、さらに学術的な忠誠の理論とは矛盾するものである。

いかなる場合であろうとも、シャリーフのカリスマも共同体の生き残りを賭けた状況に置けるリーダーシップも単に明白な概念として見なすことはできない。カリスマは受け継ぐだけでは十分ではなく、行為や成功によってその正当性を立証されることが必要である。リーダーシップに関しては、協議されなければならない。アラウィー朝支持者の王制理論では、何らかの市民による制度を介在させず王と国民の直接的な関係を促進するこれらの資質は、検証されることにより、非常に大きな問題提起を含んでおり権力関係によって押し付けられた解釈にさらされていることがあきらかになろう。これは今世紀初頭からのモロッコ政治におけるいくつものきわめて重要な事件によって明らかとなっている。

かつてスルタンと国民の間に存在した関係は、1912年に始まったフランス保護領期にかなりその性質を変えた。外国の侵入に対する抵抗は、イスラームとその地の価値観の名において始められたが、伝統的権力中枢のキリスト教徒侵入者への協力へと変貌した。1894年から1927年の間シャリーフのカリスマは他の勢力へ道を譲った。これら他の勢力はきわめて様々な形をとった。宗教的指導者(彼らの全てがシャリーフであると主張したわけではない)に支持された部族の長による抵抗、奇術師によって率いられた集団、自律性を回復するための部族間の戦い、宗教的信仰に刺激されたナショナリズムの高まりなどであった。比較的明白な目的を掲げた組織だった運動は、ムハンマド・ブン・アブデルカリム・アルハッタービー(Mohammed ben Abdelkrim al Khattabi)に率いられ、リーフにおいて展開された闘争であった。この運動は近代改革の導入し、シャリーフィズムとは無関係な共和国を設立した。この運動に対する人気は高く、さらにモロッコの他の地域を触発したことは、シャリーフの正統性が弱まっていたことを示している。

実際、王制とその象徴を、ハサン一世の死から20世紀最初の十年までという長期間にわたる無気力から抜け出させたのは、都市のナショナリズムであった。歴史家は通常、この新しいナショナリズムは、1930年5月に発令されたいわゆるベルベル勅令に対する抗議に端を発していると考える。スルタン、ムハンマド・ベン・ユースフ(Mohammed ben Youssef )が、アラブとベルベルの二つに国を分けるこの法律に署名することを拒否したとき、彼は国民感情に呼応したが、運動を率いたのは彼ではなかった。しかしながら彼のこの抵抗の結果、新しい君主が1927年に即位してすぐに、都市のエリート層、特にウラマーによって活発化した運動の指導者となった。ベルベル勅令への抵抗を率いた者たちが彼を、植民地化の策略と従順で遠心的な勢力に脅かされた国民の象徴としたのであった。これらの事件は、宮廷に引きこもらせ保護領政府とネオ・スルタン的統治によって名目上の長という地位に制限された王制へ国民の関心を向ける働きをした。闘争の初期段階から、およそ四半世紀後の独立達成まで、宮廷とナショナリストたちの間の協力と相談は増大していった。王制が失った特権を回復できるよう軍備を備え、絶え間ないキャンペーンとデモによって王は国家統一の象徴であるという考えを推進したのはナショナリスト政党であった。

この称号は後に、いわゆる帝国都市への行幸の際にはっきりと承認された。1934年フェズへの、そして1947年のタンジェへの行幸は多くの人々の記憶にまだ新しい。これらは、王制維持と国民を第一目的とした1944年のナショナリスト達による独立宣言に先立ったものであった。

この文脈ではカリスマや伝統的正統性に由来するものを、ナショナリストの政治的戦略の結果と区別することはほとんど不可能である。1953年の武装蜂起は結果的には王の廃位と亡命を招いたが、闘争の流れを暴力的なものに変えた。スルタンの人気は、ナショナリスト政党であるイスティクラール党の抜きん出た指導者であったアッラール・アルファースィー(Allal al-Fasi)の人気と共に上昇した。地方では、未来のムハンマド五世であるムハンマド・ベン・ユースフの人物像は祈願の対象となり、彼の亡命中に起こった奇跡が伝説として広まった。しかし、実際に闘争を担ったナショナリストたちの事実上の指揮者であり、ザイーム(al-za’im「指導者」)と呼ばれたファースィーに関しても同様の逸話が多くある。

スルタンがカリスマを回復し得たのは、ナショナリストのミリタン(闘士)たちの努力に負うところが大であったように見えるが、ナショナリスト政党の唯一の旗じるしは、まもなく表面化してくる意見の相違を覆い隠していた。都市部の多くの武装グループや山岳部に拠点を置く解放軍はナショナリスト政党の管理が届かなかったためあ、独立後政党と宮廷は協力して彼らを新国家の軍隊、警察、行政組織に組み入れる努力をした。スルタンの特権やザイームに対する熱烈な支持にもかかわらず、独立の志士を一掃あるいは組み入れるために抑圧は必要であった。王制は、実際、調停によらない正統性を主張できるように、つまり国民に認められるために、彼らを排除するため、少なくとも弱体化させるために様々な政治組織、労働組合、その他の組織と権力闘争を継続した。このように、王と国民の間の祝福された直接の繋がりは、実際には、説明概念と政策目的へと姿を変えた最近のスローガンである。

独立初期から1961年のムハンマド五世の死までの期間、彼が国民から非常な尊敬を受けていたことは誰もが認めるところである。彼の登場は群衆を魅了し、彼の存在は疑いなく精神的なパワーを有していた。彼と国民の間には確かに直接的関係があった。しかし彼の人気は、君主の世襲の信用にのみ帰属しているのだろうか。私はそうは思わない。というのは、アラウィー朝の家系には、死亡時までに不信任となったり、無名となった君主の名が含まれているからである。さらに、ムハンマド五世は、ナショナリスト運動が彼の反対勢力から正統性を奪ったとき、彼が受け継いだカリスマを活性化させることができた。保護領期の初期何人かの宗教指導者たち、特にスーフィー教団の長たちが、抵抗をやめ、植民地行政に協力した。1930年代に組織したデモにおいて、ナショナリストたちは、宗教改革(サラフィーヤ)の名においてスーフィー教団を攻撃した。彼らを過度の忘我主義、聖者崇拝, 占領勢力への協力を理由に攻撃したのであった。

ケッターニー・ザーウィヤ(宗教教団)とその長の運命は、このようなケースの典型である。ウジュダ占領(1907年)に続いてカサブランカへのフランス軍侵攻という騒然とした時期に、ムハンマド・ベン・アブドゥルカビール・アルケッターニー(Mohammed ben Abd al-Kabir al-Kettani)は国内改革と侵略者に対する抗争の長という立場を確立した。ときのスルタンがマラケシュで廃位に追い込まれ、彼の兄弟が王位を継承することになったのは1907年のことであった。これらの事件によって、ケッターニーはフェズで、教団スーフィズムとサラフィーズムに触発された改革イスラームと結合した運動を指導することとなった。この運動の目的は立憲議会制を課し、一方でキリスト教徒の侵略者に対する抵抗を再活性化させることであった。新しいスルタンは条件付きの忠誠を提示され、バヤアの本文に列挙された要求の代弁者はケッターニーであった。ケッターニーはこの問題についてスルタンと対立することを死ぬまでやめなかった。

改革とジハードの問題に加えて、アラウィー以外(イドリーシー)のシャリーフの血統で、強力な教団の長であるケッターニーと、アラウィーの王位との間の競合関係が観察されるであろう。何人かの同時代人たちのなかには、ケッターニーの行為は、廃位されたスルタンに取って代わるための試みであったと解釈する者もいる。このような解釈はマラケシュで既に兄の王位の継承者として指名されたムーレイ・アブドゥルハフィードの行く手に立ちはだかったことを意味するのであろう。いずれにせよ、ケッターニーは新しい君主、ムーレイ・アブドゥルハフィードが王位を継承したのちも闘いをあきらめなかった。

そのような怒りに基づいて実現した新しくまだ弱体な政府は、モロッコと、スルタンに妥協を了承させた外国との間の勢力となった。ムーレイ・アブドゥルハフィードに権力をもたらした連合はすぐに分裂した。彼がジハードを放棄し、中傷を受けるような財政行動に逆戻りし、伝統的特権を脅かすあたらしい方策を導入し、フランスや当時排斥されていた何名かのエリートと外交的妥協をしたことが原因であった。1909年、スルタンが、再び暴動の気配が見られたフェズを離れる準備をしているとき、暴動の主導者であり君主の権力制限の支持者と見なされていたケッターニーは捕らえられ、殺された19。

その他の強力な教団も同様に宮廷やサラフィー集団と対立した。教団のこのような弱体化は保護領期を通して続いた。他の重要なザーウィヤと同様、ケッターニー教団はフランスの支配を支持し、王朝に対する容赦のない闘争を指揮した。この事実がナショナリストたちの怒りを買ったのであった。そこで王制とナショナリスト政党は、両大戦間期、宮廷の保護のもと、教団の影響力を弱めることに精力を傾けた。今や全ての教団は国家の大義を裏切った嫌疑をかけられていた。宗教教団、その儀式、モラル、毎年行われる祭り(ムウセム)に対するキャンペーンが、宮廷の事前の許可なしにはいかなる教団の新設も禁止するという1940年のスルタンの勅令によって最高潮に達した。ワッザーンにある強力な教団を含む重要な教団の総本山のなかには、宮廷の管理下におかれ、自律性を剥奪されているところもある。教団の長が死亡した場合、次の長の選出にはスルタンが介入するのである。反教団運動は、独立闘争に暴力が伴った数年間に高まりをみせ、1956年の解放のときまで継続し、イスティクラール党機関紙で特に優先的に取り上げられた。

党の行動は王制にとって非常に有利に作用した。独立後の最初の年、亡命から帰国したムハンマド五世は大衆を魅了した。彼は、皆の目に預言者の子孫であり独立の英雄と映ったのである。しかし、これらの特徴を並列しただけでは彼の人気を説明するには十分ではない。これら二つの特徴の繋がりが、彼を聖者の地位にまで昇らせたのである。彼の行動が、彼だけが投じ必要とされていた活発で力強いカリスマを有しているとモロッコ人に納得させたのであった。実際、ムハンマド五世が最初にとった、大多数の眼には普通ではないと映った「行動」は、彼自身のまわりに合意を形成することであり、これはナショナリズムによって達成された。ナショナリズムが植民地勢力に好意的な宗教教団に対し闘争をしたことで、民衆崇拝が一時的に休止状態となり、王一人に焦点がしぼられたのである24。教団の衰退は、即位祭の創生と一致することは注目に値する。

アラウィー朝の支持者たちは、調停者としての王のイメージに、彼の家族の歴史的称号や、忠誠の儀式の過程で彼に与えられる正統性に由来する特権を付与した。このイメージは王と国民との直接的関係を強化するのに役立つと同時に、調停者としての王の役割によって王自身を個人的権益や党派間の争いに超越した存在としている。調停者としての王の曖昧なイメージは、アラウィー朝イデオローグが提供した他の権力基盤を分析するよりもはるかに困難である。

それは一方で古く既に確立されたイデオロギーに由来する意味を持ち、他方で共通した行動において、ある程度新旧両方のイデオロギーを立証しているからである。

モロッコ史においては、スルタンは勅令を押し付けるより調停を好み、あらゆる不正義に対する最後の手段として彼の介入が嘆願されてきたことをまず述べておこう。君主への直接の嘆願は、特別な形の役職として今日まで存続している。宮廷内に位置し、そこに解決にいくつかの資質が必要とされる問題を持ち込むのである。モロッコの独立以来、調停者としての王に嘆願をすることがより頻繁に行われるようになった。独立初期には、予期されない方法で介入への嘆願が行われた。時には、ナショナリスト政党(イスティクラール)の特権と地方の名士層によって擁護された地域の権益の間の争いを調停するよう彼に暴力でもって要求する場合もあった。例えばこのような例が1958年、東部ハイ・アトラスで反乱がアッディ・ウビヒによって率いられ、その地域が大きく変動したときであった。宮廷は、明瞭な形態では示さなかったものの、イスティクラールの政治的覇権を奪おうとする勢力を支持した。しかしこの支持は密かに行われた。これは単に党権力に対する対抗勢力を形成するためであった。王制はなんらかの政治集団にアイデンティファイしないよう注意を払い、この行為はバランスを保つための努力の一部とも考えられる。

危機的な時期において、王制は必ずしも王制支持派の組織に肩入れするとは限らない。それどころか、王制は1962年の初めて議会制が導入された際、王制支持を目的としてある政治運動の創設を扇動し、その後1972年から1976年の期間に、選挙で新議会創設を主導させるためある党の活動を支持した。周知のごとく、これら二つの議会制は長期間に及ぶ抑圧と国家の緊急事態によって分断された。1962年と1976年のいずれにおいても、新しく設立された党は、王族に近い者たちの手に握られ、コーランの定めによってのみ制限を受ける君主権を再確認した憲法を国民に受け入れさせるために機能した。しかし国民投票と選挙が緊迫した雰囲気のなかで行われたが、選挙法の無視と多くの策略が横行した。1962年、王制支持の党であるFDIC (Front for the Defense of Constitutional Institutions ―憲法制度擁護戦線)が、古くからの王の友人であり顧問であったA.レダー・ゲディラ(A. Reda Guedra)によって設立された。1976年、アラウィー一族による最高レベルのイデオロギー的管理のもと、彼の義理の兄弟が仕事を引き継いだ32。いずれの場合も、宮廷はなんらかの特別の集団にアイデンティファイしないよう注意を払った33。システムの論理によれば、そのようなアイデンティフィケーションをすれば、神の恩寵によって信徒の指揮者に与えられた君主権の概念に矛盾する可能性があったのである。それぞれの選挙の後、王制派は消滅、分裂あるいは方向転換のいずれかの道をたどった。このように、反対勢力と同様、多数派も分断のためにのみ有効であり得たのである。

1962年憲法の採択に関する国民投票と、それに続く1963年の選挙では、1961年に父から王位を継承したハサン二世は、FDICを支持している見なされる可能性があるようないかなる行動もとることを控え、党派間の争いから距離を置いた。彼は記者会見の席で、王ははっきりと政党を超越した存在であるべきだと宣言するに至った。このような態度は1976年におけるほど明瞭には表明されなかった。しかし1972年憲法では、明確に王制は市民社会の論争の外に位置すると述べられ、10年前にはまだ明瞭に確立されていなかった王制という概念に完全な力が付与された。これはつまり、支配者自身が自らを擁護する必要を痛感したということである。

サハラ問題と、この問題に関する全権を手にしていた王が単独で組織した「緑の行進」の成功は、抑圧と深刻な社会的・政治的変動に特徴づけられた10年間に及ぶ反対政党との闘いののち、王制の正統性を華々しい形で回復する起点となった。サハラ回復の戦略の選択や選挙への管理を通して、領土統一を保証する者として、王は巧妙に反対政党を結集させ、結果的に彼への人気によってそれらの勢力を弱体化させた。新しい合意が生まれ、選挙の結果とは関係なくこれらの政党に割り当てられた議席を受け入れさせた。この新しいポリティカル・ゲームの成功は1976年と1977年の選挙で立証され、議会を再活性化させた。

西サハラの回復を通して合意が形成されて以来、毎回の選挙で調停者としての王に対する認識が確認された。特に1970年から1972年にかけて急進派と軍の反乱分子が中立化したことが有効に作用したのであった。その時から、モロッコの議会は、党派を超越した王制の象徴的存在として機能し始めた。これによって王は比較的容易に、政府による制限を受け入れ、また王族の権力に関しない問題に関して言論の自由や批判をする権利を付与した。

現行憲法下での最初の議会は、1977年から1983年まで続き、第二の議会は1984年秋に、第三の議会は1993年に発足した。議会では議論が交わされるが、しかし常に与党が再選され、政府は野党の反対意見を考慮せず行動をとれる。実際、新しい形式が次第にとられるようになった。つまり大臣らの日常的な事項についての責任は増大したが、重要事項に関する決定や基礎事項の選択は王が行い、顧問や忠実な側近たちが王を支えるのである。しかしながら、旧ナショナリスト政党であるイスティクラール党、より急進的なUSFP(Socialist Union of Popular Forces―人民諸勢力社会主義同盟)、CDT(Democratic Confederation of Labor―労働民主主義連合 )に代表される野党は合法的であるにもかかわらず、つねに受け身の体勢を強いられる。USFP やCDTは、特にカサブランカを中心とした1981年の暴動を扇動したかどで追及を受けた。USFPはまた、サハラ問題に同意しなかったことが、王権への挑戦そして大逆罪を犯したと考えられ、抑圧の対象となった。1990年冬、物価高騰と失業に抗議して組織されたゼネストが、中規模の地方都市だけでなく大都市でも暴徒化した時も追及がなされた。

しかしながら、王の調停者という役割は存続したのみでなく、ここまで述べてきたようにむしろ拡大した。ここでは三つの例をさらに挙げることにとどめておこう。1978年、国家の長の主導により、農業の現状と将来に関する重要な全国会議がマラケシュで開かれた。独立以後のモロッコにおいて農業部門が優遇されたことは、非常に評判が悪く、この会議に特別な意味を持たせることになり、それは当時全国的なメディアで報道され議論された。この会議が開催される運びとなった状況を手短に説明しておくことは重要であろう。植民地化された最後の土地が政府によって回復されたのは、1973年のことであった。これは多くの土地が独立後官僚となったものたちのものとなった長いプロセスが終わったことを意味した。しかし、回復された土地のかなりの部分が、不法に新エリートたちのものとなったことは、政府への批判といくつかの重要な事件を引き起こすに至った。さらに、地方の農民への土地の再配分を約束した農業改革に対して貧窮化した大衆が抱いた期待とは裏腹に、貧困層に与えられた土地はわずかであった。残りの大部分の土地は宮廷の監督下にある大会社が手にした。このような処置は、格差を拡大させ、特権階級を潤した。特権階級は王制が推進したダムと灌漑プロジェクトやその他の大規模な開発計画からも利益を得た。このような社会経済的不平等の是正を要求する者もおり、同時にこれは国際社会の懸念事項でもあった。

そのためこの全国会議の目的は、バランスのとれた発展を達成することであった。その達成には地方における社会階級間の調停を王が行う必要があった。政府、農業組合、高級技術者や官僚のみならずあらゆる政治勢力を巻き込んで議論が交わされた。真剣な議論の後、ハサン二世は会議のメンバーと二度謁見し、小規模地主や不均衡是正を促進する改革を強調した勧告を受け取った。しかし、王の選択は逆に、農業信用ネットワークと近代技術へのアクセスの改善に焦点を絞ったものであった。農業構造の改革は最優先事項とは見なされなかった。様々な社会階層に属するものたちが君主の主導による調停を有効と受け入れ、その結果は公の批判を受けることはなかった。

王が調停をおこなうのは、政治的対立に際してのみではない。彼の介入は労働争議や技術的矛盾においても求められた。例えば、1988年、教育部門での賃上げ幅に関して組合と政府の間で長期に及ぶ対立があった。交渉は延々と続いたが、両者に納得のいく妥協案は生まれなかった。そこで自動的に王の調停が、求められたのであった。結果として、賃金は上昇し、昇進プロセスは改善された。同じ年、技術者と最高取締役会の間で設備と、ケニトラの北部に位置する広大なガルブ平原に劇的な大洪水を引き起こすウェルガ河(セブ河の支流)の水流管理をめぐって激しい対立があった。全く相容れない二通りの意見があった。一つは、いくつかの小規模のプロジェクトを順におこなうという意見、もうひとつは巨大ダムの建設を唱えたがこれは財政を逼迫させる可能性が大であった。再び王に対して調停が求められた。第一の意見を否定することなく、王は巨大ダムの建設に着手する選択をした。

以上のような描写は、調停という概念の曖昧な性質を浮き彫りにする。調停者としての王のイメージは、1963年頃からすでに前面に出始めたが、時には宮廷の行為そのものによって評判を落とすことがあった。1970年代まで、王は官僚や軍隊を直接管理し、交渉と厳しい抑圧によって反対勢力を押さえ武必要があった。イメージを回復させたのは、「緑の行進」の成功であった。アラウィー朝のイデオローグたちは、君主ただ一人が文民と軍隊、アラブとベルベル、都市と周縁部、富裕層と貧困層の間を調停することができると長い間強調してきた。彼ただ一人が、国民の統一を脅かすようなフォルトラインを超越した凝集力を維持できると彼らは述べてきた。しかしそのような調停について、常にコンセンサスが形成されているわけではなかった。

しかし、今日、君主が王制と取り巻きの社会階層に利益をもたらすための決断を下したときでさえ、誰もがそのような調停というものを信じたがっているようである。これは調停なのだろうか。つまりいかなる政治指導者も拒否できないような解決策を提示できるという意味での調停なのだろうか。議論をやめ、ある秩序を維持する利点はある。しかし、調停の最大の目的が秩序を維持することであるならば、政党を飛び越えて行ない得ないはずである。従って我々はある種の虚構を扱っているのである。虚構といっても様々な理由で政治の行為者たちに受け入れられているものである。政治の行為者のなかには、その虚構を軍隊が権力を掌握しないための保障と見なしている者もいる。これは、不平等の拡大によって生み出される動揺にもかかわらず、反対勢力だけでなく与党にとっても強力な動機である。また1989年を通して持続したある程度の経済発展は最低限必要な生活水準を皆に保障するという希望を、調停は補うと考える者たちもいる。最も重要な理由は、おそらく現存の抑圧システムの効率性と制止力であろう。それぞれの理由の重みがどうであろうと、この権力行使の形態に対する同意は、知覚の深く非客観的レベルに根ざし、日常的な行動の指針となる動機から生まれるものであるはずである。現行のモロッコのシステムにおいて、政治的・社会的連帯が生まれる条件が未だ定かではなく、政治的相互作用によってその効率性の実体が暴かれる。確かに、これらの連帯については今日激しく議論が交わされているが、これまでのところその基盤にふれるような議論は出ていない。

政治学者を初めとする観察者たちは、王がシャリーフの出自による特権と、バヤアの儀式と手続きによって自らの権力に宗教的正統性を付与するという特権を有していることを認識している。1961年、ムハンマド五世の死後、ムスリム共同体の精神的指導者であるウラマーは、皇太子が即位するとき誓いをし、続いて国民の代表が誓いをたてた。これらの代表は行政によって選出されたのであるが、それは重要ではない。というのは、毎年君主に忠誠を誓う者たちの代表性に対してこれまで誰も異議申し立てをしたことがないからである。

しかし、実際、出自によるカリスマと忠誠の誓いの相対的意義を評価することは難しい。それらは価値があるが、傷つきやすい性質をもっている。預言者の子孫であることは規範を思い起こさせるよりむしろ様々な程度の共感をよび、同時に預言者の子孫であると主張する者たちに宗教的な恐怖を持たせる。忠誠に関しては、スンニー派のイスラーム法によれば(ある特定の条件下では)、忠誠を受けた者の能力不足が証明されたり、不信任を受けた場合、取り消すことができる。1972年の憲法では、王は信徒の指揮者、つまり国民の最高の代表者であると明示されている。しかし、この規定は、憲法を超越した王の伝統的正統性を維持するだけでなく、さらに議会の立法権をもはるかに超えた立法権を王に与えている。従ってこのタイプの正統性は、憲法に明記されているにもかかわらず、曖昧なものである。

いずれにせよ、伝統的正統性の有効性に関する明らかな証明がないため、それは他の正統性にとって一種の最終的な逃げ道となる。奇妙なことに、王が特別に人目をひく性質を見せた時にのみ国民の心をつかむのである。そのような事例としてあげられるのは1971年と1972年に彼が二回のクーデターに遭遇し、自力で逃れたときである。しかし騒擾が起こった危機的な時期、(神の)祝福や宗教的称号を思い浮かべる者など誰もいなかった。これは1965年のカサブランカ暴動、1981年の主要都市での暴動、多くの負傷者を出した1990年冬のフェズでの暴動、米国寄りの王の姿勢に真っ向から挑戦した1991年2月のラバトでのデモ(これは湾岸戦争中の連帯を形成した)を実際に見た者たちの誰にも明らかである。

従って、ある意味で形式的な基盤にすぎない宗教的特権と忠誠の他のモロッコの政治システムを維持する重要要素の検証にたち戻るべきである。あらゆる事実は次の三点に基づいた構造の精密さを示している。その三点とは、王直属の強制力執行のための装置、独立のための闘いから発展した都市の政治的勢力(基本的に改革と進歩という理想を支持する小規模のプチ・ブルジョワジー)に対抗するための多面的闘争、そして地方の名士層との連帯である。

 

「口輪をかけられた」市民社会

 

ムハンマド五世が亡命から帰国(1955年11月)し、ハサン二世が1965年6月7日に非常事態宣言をした期間は、強制力執行機関の強化と反対勢力の弱体化、そして王制を支持する社会的連帯の確立を導くこととなったいくつかの事件が起こった。続く五年間、権力行使を支えたのは主に警察と軍隊であった。王は、さまざまな便宜を与え、外国からの借款によって積極的な農業政策を推進することによって、地方の名士層と大地主の支持を得ようとした。しかし度重なる汚職や、開発政策による地方からの人口流出は不安感を生んだ。そして、政治的打開と1970年の第二回目の議会の活性化を求めた新しい試みを導くに至った。

しかしながらこの定式のもろい性質が、1971年と1972年の失敗に終わったクーデターによって明らかになった。教育部門は1971年に改正されたが、1973年まで動揺が続いた。1972年9月、宮廷と野党との対話が始まったが、一方では野党内の分裂と要求のために、他方では王がいかなる権力も認めようとなかったために、すぐに膠着状態に陥った。抑圧の波が新たに押し寄せ、市民の自由を縮小する一連の法律は、イスティクラール党とUSFPを威嚇した。サハラ問題は、宮廷と野党によって積極的に再活性化されたのだが、歩み寄りのきっかけとなった。新しい合意形成が1975年から始まった。長期間に及ぶ抑圧の後、党は王の主導権に降参し、これは再び国民の熱狂を誘った。これら二つの主要な政治勢力がおとなしくなったことで、既に述べた調停された選挙が可能となったのであった。

独立後、ムーレイ・ハサン(後にハサン二世となる皇太子)が自らの権威を国防省より上位に確立することに成功した。モロッコ独立後最初の政府の長と親しかった元諜報機関員のアメリカ人著者は、国民党の努力にもかかわらず(その最も人気が高かった時期に)、王は「近衛兵」の伝統を維持しようとし、ようとし、その指揮を皇太子に任せることができたことを指摘している。後者は、保護領政府が手放す治安強化部隊を新国家に移転することと、職業軍の育成に関してフランスと交渉を行った人物であった。この取り決めには国民解放軍の統合が含まれており、それは国民解放軍の何名かのリーダーの助力によってすでに1957年に完了した。イスティクラールが行政を支配し、そしてマフディ・ベン・バルカ(Mahdi Ben Barka)のリーダーシップと労働組合の支持によるナショナリスト政党の左翼が台頭したことによって、宮廷は軍隊に対する管理強化を急いだ。これは、1960年初頭に肝心な部分は終了した。

将校の選択は効果的になされた。例としていくつかの名前をあげてみよう。オフキール、ドリス・ベン・オマル、しばらく後にメドブゥフ、バシール・ベン・アルブハーリー、ウカシャ、ハティミー、ベンナーニーなどである。彼らは皆、地方か都市の名士層に属する家族の出身であった。つまりカーイド、パシャ、あるいは富裕な商人の息子たちであった。彼らの大半が、大抵の場合地方出身者であるエリートの軍事訓練を専門に行っているメクネス・アカデミーに学んだ。彼らをよく知っていたW.ザートマンは、次のような指摘をしている。「将校たちのナショナリズムは王への強固で保守的な忠誠と政治嫌いという点に表れている。彼らは互いにフランス語を話し、フランス人の妻をめとる者もいた。彼らの階級が変わることはほとんどなかった。これらの特徴によって、フランス人将校と彼らとの間に、忠誠と配役に基づいた確立され、良好な関係を維持することが出来たのである」。

まずムハンマド・オフキール(Mohammad Oufkir)大尉が、続いてフランス軍で訓練を受けた若い将校が、保護領政府の諜報機関から宮廷に転属となった。これに警察とシークレット・サービスの転属が続いた。警察と軍隊という二つの装置が、今や宮廷の直接管理下に入ったのであった。王制が再編成した将校たちは、名士層出身で、フランスにための任務についた経験を持つ者たちであり、イスティクラール党を支配していた都市部のブルジョワジーに敵対する勢力を形成する結果となった。これらの幹部たちは政治家を軽蔑しており、自らを党派闘争に優先する理想である「神、祖国、王」を擁護する技術者と見なしていた。軍隊は国内秩序を維持するために組織された。その最初のキャンペーンは1958年の秋にリーフ地方、ミドル・アトラス、ハイ・アトラス地域でおこなわれた。それらの地方では、地域の「大きな男たち」がナショナリスト政党による行政の支配に抗議した騒擾が暴動化していたが、王はナショナリストへの競争勢力を創出するために明らかに不安が拡散するのを許していた。(これは1957年既に大衆運動が形成されるのを促進した。特にハイ・アトラス、ミドル・アトラス、旧サハラ地域を中心とした地方から人員が募られた。イスティクラール党の抵抗があったにもかかわらず新党は1959年に合法化された。)メクネス、ケニトラ、マラケシュの駐屯地は、近衛兵の本当の機能を明らかにした。それは事実上植民地軍にとってかわったものであり、領土の防衛よりも国内治安維持の観点から地理的な配置がされていた。軍隊は独立初期に二度国境地帯で介入した、一度目はエクヴィオン作戦(1958年)の枠内で、そして1963年のモロッコ・アルジェリア間の砂漠戦争の期間中であった。しかしながら、エクヴィオン作戦は結局のところ警察行動であった。というのは、解放軍のなかで南の地方に残留した者たちを一掃することが作戦の目的であったからである。最終的には、王制擁護の同様の伝統が、王の権威にもとづき、王自身によってえり抜かれた将校たちのリーダーシップによって、軍隊が使用されることを説明している。そのような指導的立場にあった将校のひとりが、オフキールであた。彼は内務大臣として1965年3月のカサブランカ暴動を流血をいとわず抑圧した人物である。その時点で、オフキールは力を持った体制側の人間となった。軍隊制度はこの国の政治生活の中心であった。彼は警察の長として、イスティクラール党(そして1958年から1960年の間主導権を握っていたと考えられる左翼)を政府から閉め出し、さらに1964年から1971年の夏まで内務大臣を務めた。オフキールに続いたのはメドゥフ将軍であった。彼は知事そして大臣として奉職した後、1967年に近衛隊長となった。

王制が警察、領土経営、そして軍隊を独占していることはいくつもの事実に反映されている。まず、内務大臣の席に着くのは常に宮廷の親しい友人たちであり、第二に国防大臣は、一度の例外を除いて、後のハサン二世である皇太子の手に握られていた。しかしながら、騒擾を鎮圧する機関の管理を掌握したことでは、体制がいい立場を得たことやその永続性は完全には説明できない。むしろ、政治活動の局面の減少、政党の弱体化、さらに特権階級に有利に働く経済的特権などの理由を考える必要がある。まずプロセスそのものを検証してみよう。そのあとで、それを成功に導いた文化的局面を考察することにする。

国内のクリバージュ(溝)は、イスティクラールの影響力を制限するために使用されたアラブ・ベルベル間のクリバージュのみでなく、都市エリート間の対立関係もすでに独立初期に濫用された。たとえばいくつかの重要な地位が、ベルベルの名士層出身で、アズルーの大学で教育をうけた息子たちに割り当てられ、ハサン・ルアッザーニーは都市部エリート層にイスティクラールに対立する小さな党を活性化した。最終的には、大きなナショナリスト政党そのものの内部で分裂があらわれるのに時間はかからなかった。近代的な教育を受けた若いリーダーたちは、都市部のより伝統的な家族の出身で、時代遅れのイスラーム教育機関で教育された年老いた番人たちと対照的であった。近代主義者たちのなかには、アズルーで教育を受け、宮廷側についたり、党の左翼への傾倒をみせるベルベル人もいた。党の左翼は農業改革と私有財産の不可侵の再確認において保守的なリーダーたちと特に対立していた。有力なモロッコ労働組合(UMT – Moroccan Union of Labor)は、1958年イブラヒーム内閣を樹立したイスティクラール党左翼のプログラムを支持した。緊張がたかまり、1959年1月には、イスティクラールは二つのグループに分裂した。おおよそ8ヶ月後若く急進的なメンバーがUNFPという別の党を結成した。

1960年の春、アブダッラー・イブラヒームに率いられたUNFPの内閣は解散し、王自身が率いる新内閣がとってかわった。その内閣の大半を構成したのはいわゆる独立大臣たちであった60。そのときまでにモロッコの政治的状況は1970年代まで続き、部分的には今日まで存続しているいくつかの特徴を備えていた。それらの特徴とは分派によって掌握され、政府での一時的な役割によって信用を落とした老齢のナショナリスト政党、政治の舞台の中央から一部のエリートを閉め出している分裂、そしてイスティクラール党、独立民主党、大衆運動など互いに競合する多くの政党である。強力な労働組織であるUMTは労働者階級からの忠誠を主張した。しかしUMTはイスティクラール党が分裂の後に創設したモロッコ人労働者一般同盟と競合関係になった。最終的に皇太子に対する策謀(1959年に「発覚し」、UNFPの闘士と元解放軍メンバーへの抑圧の動機となった)と1960年のストライキが左翼を弱体化させ、政府から排除するために利用された。

競合した利益と特に王制の行為によって原子化されたこの政治世界の中心は、いまや権力の大半を再び掌握し、ワズィール・スタイルの政府を復古させた王であった。多くの政治あるいは組合の闘士が、王制をポリティカル・ゲームの管理者であり社会的・政治的成功への鍵であると認識し、王制への協力を決断した当時、以上のような状況であった。そのとき定められた構造は、1961年2月26日のムハンマド五世の死後、ハサン二世が王位を継承したことで完成した。

このような状況で特に大土地所有者にとって優遇的な経済的決定を体制が下したと理解されなければならない。当時の経済相であったアブドゥルラヒーム・ブアビド(Abd ar-Rahim Bu’abid)の影響で作成された1960年から1964年の5カ年計画では、工業化と農業改革が強調された。これら二項目は解散した左翼内閣の優先事項であった。実際、工業化はまもなく放棄され、農業改革はわずかな土地が貧農に分配されたにとどまった。王制はモロッコ農業組合(UMA – Moroccan Union of Agriculture)の創設を早くから支持し、1985年7月の創設を公的に承認した。UMAにおいて支配的立場にいたのは、元技術者で保護領期にカーイドであった大土地所有者のマンスール・ネジャイ(Mansour Nejjay) であった。ネジャイは王制に忠実であり続け、独立モロッコ最初の農業相となった。UMAは彼の指揮下で大規模農業(彼の意見ではこれが近代技術を導入する唯一の方法であった)と農民の教育プログラムを推進した。

UMAは新土地所有者層の組織だったセンターとなり、宮廷と親密な関係を維持した。UMTやUSAなどに属していた他の組合は、改革に好意的な7万名のメンバーを有していたが、急速に消滅した。これによってUMAは一局面をクリアーし、今日に至るまでUMAは強力なロビーとして機能している。

体制は農業改革の理想を公然と拒否したことはなかったが、UMAによって支持された線に沿って、特に近代技術の受容に関しては、農業改革を解釈するようになった。土地の分配を除いては、それも1965年までにわずか18,000ヘクタールに影響が及んだだけであるが、あらゆる改革の理想は大規模な水プロジェクトと、甜菜、さとうきび、綿花などの商品作物促進のために放棄された。その1960年9月に、五つの境界線を整備し開発するために国営灌漑企業が設立された。農業改革の放棄は、内務省を通してUMAと宮廷の協力したことに起因する。1960年の地方選挙で、大衆運動や多くの無所属候補など、宮廷と固く結びついた運動の位置がはっきりと確立された。これら無所属の候補はイスティクラール党やUNFPから離脱した者か、保護領化下で評判を落とした地方の名士で、同盟の転覆を主導した者たちであった。独立後、地方にみられた幻想は、伝統的な地域集団の地方選挙での劇的なカムバックとなった。この文脈で、UMAは大土地所有者だけでなくいわゆる伝統的セクターの小農をも引き入れることに成功した。

地方においてイスティクラールの影響が減少したのは、クリヨンテール・ネットワークが再活性化され、UMTやその他の反対政党に敵対する新しい政治的集団や組合の集団が創出されたことによった。これらの行為によって、名士層は植民地化によって失った土地を回復した。そのような執行は禁止されているにもかかわらず、である。農業改革を阻止し、そして地方レベルで王の権力を再び刷り込み、強化するために地方共同体を形成するという二つの目的はほぼ同時に達成された。このような文脈において、王の権力は農民への土地分配を制限するのに十分なほど強固なものとなった。回復された土地のうち耕作地は75万ヘクタールであったが、1959年から1973年までに農民に分配されたのはわずか18万5千ヘクタールにすぎなかった。UMAは、有力な支持者たちへのこれらの土地所有権をの移転を推進した。

1960年の地方選挙は、しばらくの期間植民地勢力側についていた地方の名士層との関係を再建するために行政が一致団結して事にあたった最終段階であった。これが、部族レベルではシェイフが、村レベルではムカッダムがその地域の集団から選出され、彼らの特権が増大する行政組織を、我々が解釈できる唯一の方法である。直接の行政チャンネルを通してネットワークが再建されるに至る。内務省の厳しい監視下で行われ、イスティクラールやUNFPなどナショナリスト運動の古い党に反対する新党に有利な投票手続きがとられる地方選挙を通した間接的な再建もある。王が支持基盤として利用した集団には、部族から不法に獲得した財産を守るために行政へのアクセスを必要とした大土地所有者だけでなく、保護領下で社会的立場を失った者たちが含まれていた。地方の名士層と都市部の大土地所有者は、このようにして体制の持続的な社会的基盤に共存した。1962年憲法の採択にする国民投票とそれに続いた1963年の選挙では、基本法によれば、王の監督をうけなければならない議会で多数を得ようとした。しかし、この試みは失敗に終わり、次の抑圧の時代へと入ることとなった。都市部の起業家たちの対抗勢力であった地方の名士層は、便宜を互いにはかることで足固めをした。つまり、植民地化されていた土地の獲得と行政の最高レベルでの影響力は、資源と影響力を手に入れたパトロンが力をもつネットワークの確立を意味した。

もうひとつの策謀が1963年に明るみに出たことで、UNFPは再び抑圧の対象となった。挑戦と恐怖を伴うこのような状況で、農業に関する国会での議論によって1964年政府は解散に至った。1965年3月発生した暴動は、軍によって厳しく弾圧され、非常事態(戒厳令)が宣言され、これは実施には1972年まで続いた。この長期間、王制の権力行使の基盤は軍隊と、主にテクノクラート、特に資産家で構成される政府であった。

 

(本テキストはハンムーディー氏の著作Master and Disciple の抄訳―担当:中川恵 ―である。尚同書の翻訳は、レズラズィ・エルモスタファ、大坪玲子、中村覚、中川恵によって現在すすめられている。Master and Disciple  is being translated by ElMostafa Rezrazi, Otsubo Reiko, Satoru Nakamura and Kei Nakagawa. The publication of Japanese translation will be in summer 2000.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
* プリンストン大学人類学教授、現代中東北アフリカ中央アジアトランスリージョナル研究所所長。

 

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