barlamane-logo
International Reserach Group for Transregional & Emerging Area Studies
The International Reserach Group for Transregional & Emerging Area Studies is a non-partisan and multidisciplinary Think-Tank Organization.
11:31 - 23 March 2000

近代モロッコにおける君主権論序説

Kei_Nakagawa_Photo middle_size

Commander of the Faithful, King, Sultan : Introduction to Sovereignty in Modern Morocco

 中川 恵            Kei Nakagawa *

 

 はじめに

 モロッコの政治体制は、伝統的にマフザン(al-Makhzan)とよばれる。従来のマハザン研究は、研究者個人の政治的な立場に強く影響されている。本論文では、当然のことながら特定の政治的な立場に偏ることなく、マハザン体制を、歴史的流れの中で歴史現象としてとらえたい。またこの論文は、将来さらに多くの史料を検討し、モロッコという地域やその歴史的伝統についての知識を深めたうえで、マハザン体制について研究をすすめてゆく序論であり、本論文ではとくに君主権と社会の「交換」について明らかにしてみたい。

   「交換」という概念は、フランスの社会学者Pierre Bourdieuが発展させたものである1)。Bourdieuは、1970年代、文化を中心とした上部構造が経済を中心とした下部構造に依存したものであるとしたマルクス主義的アプローチの弱さを乗り越えるために、新しい社会学的なアプローチを発展させた。Bourdieuは、西欧社会の市場の法則を研究し、それを文化、イデオロギーの場に応用した。その結果、経済的な場のみならず、文化的な場においても、文化資本の「交換」が語られるようになった。このアプローチによって、マルクス主義の理論におけるように、経済の優位を前提とする必要がなくなったのである。つまり、簡略化すると、文化資本の「交換」に関する理論では、出版物、講義など文化的な場と経済的な市場、文化的な財と経済財、そして作家、研究者、記者、イデオローグ、学生、読者など文化的な行為者と生産者、消費者が並置され、文化的な場も自律的に考察の対象となった。行為者間の関係については、常に先生と学生、イデオローグと世論、作家や研究者と読者といった二項対立的になるわけではなく、三項対立的、時にはそれ以上に複雑な関係になることも当然有り得る。この関係について、「大衆」「イデオローグ」「統治者」三項を例に挙げると、「イデオローグ」は、「大衆」のなかで「統治者」に対して影響を及ぼす。と同時に「統治者」のなかで「大衆」に影響を及ぼす。しかし、この「イデオローグ」の役割は、「大衆」あるいは「統治者」いずれかの代弁者となったとき、消えてしまう。また、「大衆」「統治者」いずれかの存在がなくなったとき、「イデオローグ」も存在しえなくなってしまう。

 伝統的な政治理論では、国家は独立して存在したものであるかのようだが、少なくとも19世紀後半から20世紀初頭にかけてのモロッコには、これは当てはまらない。つまり、この場合は、国家は社会との「交換」によって成り立っていたのであった。詳細については論文中で言及するが、例を挙げると、君主は、軍隊と徴税によって、その統治権を行使したのだが、軍隊を持つためには、「部族」を満足させ、兵士を供給させる必要があった。したがって、君主は統治権を行使するためには、まず忠誠の誓いであるバイヤによって、社会に受け入れられる必要があった。ザーウィヤと君主との関係も同じように、君主が「調停者」としての役割を果たすためには、ザーウィヤの協力が必要であった。そしてザーウィヤとの協力を円滑に行うために、バラカや、アミール・アルムーミニーンと民衆の間の贈り物であるヘディーヤの「交換」がなされる。

 このようにモロッコのマハザンは社会に制度などによって安定を与え、社会はマフザンに正統性を与えることで、統治を続けて行くことが可能となるのであった。

1. 「スルタン」としての君主と軍隊および税金

 モロッコがフランスとスペインによって保護領化されたのは1912年であるが、Mawlay   ‘Abd al- ‘Aziz とMawlay Hafidhの時代は、Mawlay Hasan と彼以前の君主たちの試みた改革が失敗し、ヨーロッパ列強によって事実上の主権を失ってゆく過程であった。したがって、「保護領化前のモロッコのマフザン」というとき、考察対象となるのは、Mawlay Hasan の時代とそれ以前の時期であろう。

 歴史的観点からマフザンをみると、それは次の二つに分けられる。一つめは部族間のアサビーヤにもとづいたマフザン、もう一つは君主がシャリーフであることをイデオロギー的支えとしたシャラフィズムにもとづいたマフザンである(2)

Sa’diyyunと ‘Alawiyyunの両王朝のマフザンは後者のシャラフィズムにもとづいていた。

 19世紀末のMawlay Hasan  の時代は、1830年フランスのアルジェリア侵攻、1844年イスリー戦争、1859年テトワン戦争という三つの対外的な危機と、旱魃、疫病、飢饉などの多くの自然災害に見舞われ、さらに外国商人の介入によって経済は不安定化した。アリームたちはこの危機的状況に直面して、君主の政策に対して反論を行い、経済の不安定さをうまく利用した商人たちは被保護民(マハミーユーン)となり、さらに多くの部族が税金の支払を拒否してスィーバとなった。モロッコの君主は、後述するように、アミール・アルムーミニーン(Amir al-Muminin)(3)、スルタン、シャリーフという三つの側面を持っていた。したがって上述のようなアリームからの反発は王の宗教的権威を、スィーバの存在はスルタンの正統性を、外国の介入は領土保全を脅かした。これらの危機を打破するための基盤となったのは武力と徴税という二つの柱である。つまり、武力を支えるために税金をとり、さらに税金をとるために武力を使うという「暴力の構造」である(4)。しかし、この二本の柱だけでは歴史的状況を理解することは難しい。つまりシャリーフ/スルタンは、税金をとるためだけでなく、その存在自体の政治的、宗教的意味も大きかった。たとえば税金をとる代わりに、武力となる部族を増やすだけでも、社会安定のための「効果」はあったのである。

 Waterburyの分析は次の三点から批判される。第一点は、モロッコの政治体制の分析において、二つの異なった理論の結合を試みたことである。第二点は、「暴力」という概念を道徳的な観点からのみ理解して、分析したことである。第三点は、国家の暴力の理論だけでは、なぜスルタンが、Waterbury自身が述べる「征服者」の役割を演じるのかが理解できないという点である。

 第一点めの、結合を試みた二つの理論とは、社会階級の理論と、Geertzの影響を受けた政治人類学である(5)。Waterburyは19世紀モロッコの政治体制を、スルタン、あるいはマフザンを社会階級、あるいは経済的利益を共有し、社会構造の対象である、支配的社会階級の一部と考えている。この分析方法は、社会階級の存在が明らかになってきた1960年代、1970年代のモロッコ社会を分析する方法から応用したものであり、19世紀のモロッコを分析する方法としては不適切といえよう。

 19世紀のモロッコを、Waterburyは、「マフザン」「マフザンの部族」「スィーバの部族」という三つの「階級」から構成されると考えた。そして彼は国家の定義を「institution of violence = 暴力の制度」と考えた。国家が「福祉」の役割を担うようになったのは、20世紀に入ってからのことであり、Waterburyは、この役割が欠けていたとして、19世紀のモロッコの政治体制を批判したのであった。

 Waterburyが結合を試みた第二の理論は、政治人類学におけるとくにGeertzの分析した指導者の理論であった。Waterburyは、指導者の所有する「象徴資本」は、宗教も含めてすべて指導者が、その政治的地位を確保するために意識的に獲得したものであると考えた。彼の分析を適用すると、スルタンあるいはマフザンの構成員がムスリムであるのは、国家を統治するための手段としてのみであることになってしまう。

 以上をまとめると、Waterburyは、19世紀モロッコの政治体制を、スルタン、あるいはマフザンという社会階級が宗教的イデオロギーを含むさまざまな手段を用いて他の階級を支配する状況として、分析した。

 第二の点は、国家の「暴力」の側面についてであるが、これは上述したように、国家が「福祉」の側面を備えていない点から、国家の「暴力」的側面を批判したということである。

 第三の点は、以上のWaterburyの分析では、一方でWaterburyが述べているような、スルタンがなぜ「征服者」としての役割を果たすのかを説明することは難しい。

 モロッコの歴史を検討すると、スルタンは部族の支持基盤を失ったのち、シャリーフ・スルタンとしてのイデオロギーを支配のイデオロギーとした。それはスルタンが部族連合の外部でシャリーフとしての役割を果たすことによってのみ、部族の暴力を支配することが可能であったからである。

 政治体制のシャラフィゼーション、つまりシャリーフであることを政治体制のイデオロギーの柱とした現象は、それ以前の政治体制と比べると、次の三つの大きな変化によって特徴づけられる。

 第一はシャリーフ・スルタンは次第に国内的な資源にのみ頼ることとなり、権威を守ることができなくなった。そのために部族と中央権力との間の紛争が政治体制の表面に現われてきたのである。すなわち、この現象は、外国貿易とジハードによる「収入」がなくなって、マクスやナイバといったマフザンによって押し付けられた非宗教税の支払を拒否した部族に対してシャリーフ・スルタンがハルカを行ったことから理解される。

 第二はシャリーフ・スルタンがすべての部族に非宗教税であるナイバを課した。このことから、シャリーフ・スルタンがアサビーヤを超越した存在であるといえる。

 第三は「ハルカ」と「ナイバ」という、上述の二つの変化によってシャリーフ・スルタンはすべての権力を自らに集中させ、社会のすべての構成要素のうえにシャリーフ・スルタンの権威を拡大させた。そしてすべてのアサビーヤのうえに彼自身の宗教的権力を超越させた。しかし、これはスルタンが政治的ゲームの外に自らを置いていることを意味するのではなく、すべての核となっていることを示すのである。

 この役目を実現するために、君主の権威は以下のようないくつもの側面を持った。

シャリーフ、バラカの所有者、ウラマー、シャリーフ、そしてアーヤーンによるバイヤのセレモニーによって認められるアミール/アルムーミニーンとしての側面である。シャリーフ・スルタン制がアサビーヤに基づいていたのではないということは、これが単にシャリーフとスーフィーの同盟にのみ基づいていたことを意味するのではない。シャリーフをイデオロギー的基盤としたマフザンはアラブ人の父とベルベル人の母を通じた部族間の同盟にも基礎を置いていた。Sa‘diyyunの場合は、もともとスース地方の部族をその支持基盤として権力を握るに至ったが、スースのアサビーヤをそのイデオロギー的基礎としては用いなかったのである。

 Mulk(王権)の基礎については、アラブ思想において、論者によってさまざまに挙げられている。まずMusa  Ziyyaniは、Mulkの三大要素を理性、政治、正義とし、この三要素の次に徴税と徴兵をあげている。Abu al-Hasan M’wardi は、1)国家の都市化、2)人々の服従、3)軍隊の管理、4)財源の確保をあげている。Ahmad Abi Arabiyaは、1)人々の服従、2)都市化、3)軍隊、4)財源を、Abu  ‘Abd Allah Ibn Azraq は、1)大臣の任命、2)シャリーア、3)軍備、4)財源の確保を、Ibn Khaldunは、1)アサビーヤ(つまり軍備)、2)都市化(つまり財源の確保)をあげている(6)

 このようにアラブのアリームの政治思想においては、「軍隊」、「正義」、「財源」、「都市化」が国家を維持する最も重要な要素としてあげられた。「軍隊」を設立、維持するために「財源」が必要であり、「財源」確保のために「都市化」による経済活動が必要である。また「都市化」と経済活動を保証するためには「正義」が必要なのである。「正義」を実現するためにシャリーアが必要なのであった。そしてこれらの四つの要素のいずれを特に重要視するかは各王朝、各時代、各君主によって異なり、それぞれの王朝、時代、君主の特徴となるのである。

 ただし四つの要素のうち「都市化」は、「軍隊」の維持、「財源」の提供、「正義」の実現と相互補完的な要素である。したがって、本論文では、「軍隊」、「財源」具体的には税金、そして「正義」、具体的にはシャリーアを実際に運用する立場にあるアリームという三要素が、スルタンとどのような関係を持っていたのかを明らかにすることによって、保護領化前のモロッコの政治体制を明らかにする序論としたい。

第一節 スルタンと軍隊

(1) 軍隊組織

 保護領化される以前のモロッコの軍隊組織について、Mawlay Hasan  が統治した時期の軍隊(ギッシュ:Guich)をこの節でみておきたい。Mawlay  Hasan    の時期を選んだのは、後述するように1844年のイスリー戦争以後、 Mawlay  ‘Abd ar-Rahman, Sidi  Muhammed  が 軍事改革を試み、Mawlay   Hasan  がそれらをもとに軍事改革を行い、保護領化以前にモロッコがイニシアティブをとっておこなった最後の軍事改革だからである。

 そのMawlay Hasan の統治した時期の軍隊は、特定の部族から構成される軍(以下「部族軍」とする)、ブハーラ(Bukhara)そしてナイバ(nayba)からなっていた。ナイバを除いて最初の二つは常備軍で、その費用はマフザンによってまかなわれた。ナイバは必要なとき、不特定の部族から召集して構成する軍で、その費用は兵士を出した部族がまかなった。

 第一の「部族軍」を主に構成した部族は、シェラガ(Cheraga)、シェラルダ(Cherarda)、ウダヤ(Oudaya)、ウーラード・ジャーミーア(Oulad Jami’)である。シェラルダはもともとマラーケシュの周辺の部族であった。しかし、Mawlay SulaymanとMawlay ‘Abd ar-Rahman に対する反乱ののち、シーディー・カッセム(Sidi Kassem)の近くのガルブ(Gharb)地方に移された(7)。ウダヤはザルフーンとセブーの間の地域、サイス(Sais) 平原、ファースに居住する部族で、ファースではとくにスーク・エルハミース(Souq el Khemis) のカスバに居住していた(8)。ウーラード・ジャーミアもファース周辺の部族であった(9)

 第二のブハーラは、部族ではなく、Mawlay   Isma’ilが若く軍役に適していた黒人奴隷を集めてつくった一種の黒人軍(アビード: ‘Abid)が基盤となった集団であった(9)。

 第三のナイバは特にハウズ(Houz)とディール(Dir)地方から集められた非常備軍である(11)。これはハルカ(遠征)の際、必要に応じて部族のカーイドを通して召集された。費用は部族の負担となった(12)

 以上のギッシュの総勢は、9000人以上の兵士で、第二のもと黒人奴隷からなるブハーラがこの大部分を占めていた(13)

 ギッシュを構成する集団の単位はルハ(rha)と呼ばれた。これは理論上は1000人で構成され、カーイド・エッルハによって指揮された。カーイド・エッルハの 補佐役はアッラーフ(Allaf)と呼ばれた。各ルハはいくつかのミア(miya)から成り、これを指揮したのはカーイド/エルミア、補佐役はムカッデミーン(moqaddemin)であった。カーイド・エッルハが緊急時にその機能を果たさないような事態に陥った場合には、カーイド/エルミアがハリーファ(代理)となった。同様にカーイド・エルミアの代理はムカッデミンがおこなった。また軍隊全体を取りまとめるのは、戦争大臣(wazir al-Harb)であった(14)

(2) 軍事改革をめぐる意見

 1840年、フランスとのイスリー戦争で負けを喫して、ときの君主Mawlay ‘Abd ar-Rahmanは軍事改革の必要性に気付くことになる。モデルとなったのはトルコ軍であった。改革後の軍隊はアスカルと呼ばれ、約16000名の兵士で構成された。アスカルの長はMawlay ‘Abd ar-Rahmanの息子で、当初は成功し、エジプトのムハンマド/アリーが35冊のエジプトの戦争の本を進呈したほどであった(15)。しかしこの改革には大きな抵抗があり、そのために結果的には成功しなかった。

 テトワン戦争の後、Sidi Muhammedは再び常設軍をつくることをこころみた。彼はまず10名のウラマーたちに意見を求めた。改革に着手したものの、ウラマーたちの反対にあって結局失敗に終わらせてしまった父親Mawlay ‘Abd ar-Rahmanの失敗を繰り返さないためであった。

 Mawlay   Hasan  の時代、マフザンの側からの軍事改革案は、Mawlay  Hasan  自身から出された。彼はモロッコの軍隊は弱いと考えていた。したがって各々のまちが軍を持つべきであると考え、ファースに500名、ラバトとサレーに600名、海岸沿いのまちに200名の兵士を置くことを義務づけた。また部族に関しても、同じように兵士の駐留を義務づけた。また軍人台帳を作り、兵士の召集を簡単に行えるようにした。軍人台帳には、姓名、軍務の種類、職業、住所、備考が記録された。

 その結果、上述の(1)でみたような、常設軍と部族軍からなる軍隊が成立することとなったのである。さらに戦術や兵器の近代化について、Mawlay Hasan はフランス、イギリス、そのほかスペインからも軍事訓練のエキスパートを頼んだ。たとえば、フランスからはアイケルマン、イギリスからはマックリーンなどの名があげられる。

 またウラマーたちからも軍事改革についての意見が提出され、その例としては、Ben Azuz  ar-Ribati al-Murrakusi (以下Ben Azuz とする )の『ila  as-Sultan as-Sharif  min al- ‘Abd ad-Dhai’f (「慎み深い人」からスルタンシャリーフへ」』という書簡、アルジェリアを占領したフランスに対してジハードを行うようモロッコの君主に要請したAbu al-Hasan ben ‘Abd as-Salam at-Tassuli (16)の書簡、Muhammed ben Idris al-Amrawiの書簡、 Muhammed Gharritの書簡、 Muhmmed ben as-Sheikh as-Shanguitiの書簡があげられる(17)

(3)マフザンにおける軍隊の位置づけ

 マフザンにおいて軍隊が、従来の研究ではどのように位置づけられていたのかについてみてみたい。

 まずLarouiによると、彼はマフザンを「小さいマフザン」と「大きなマフザン」という二つの概念に分けて考察をした。「小さいマフザン」の構成要素は、スルタン、政府、Dar al-Makhzen (宮廷:ハージブ、クッターブ、近衛兵)、カーイドなどの地方行政官、そして軍隊である18)。「大きなマフザン」の構成要素は「小さなマフザン」の構成要素に加えてアリーム、シャリーフ(ザーウィヤ)、アーヤーン、商人である。(なお「大きなマフザン」の構成要素をあわせてハーッサKhassaという19)。Gaillard とMichaux-Bellaire は、マフザンがモロッコ政府を意味し、一般には中央権力を指して使われるとしたうえで、軍隊をスルタンや大臣と並ぶマフザンの構成要素として考えた20)。Terrasse はマフザンを、スルタンと共に中央政府の構成要素と考え、軍隊を官僚、財政と並ぶ中央政府の権力行使の手段と考えた21)。Waterbury は、マフザンとDar al-Makhzen という二つの概念を分け、政府、地方行政官、シャリーフとザーウィヤとともに軍隊をマフザンの一つの構成要素と考えた22)

 しかし、上述の改革案を書簡中で述べたBen Azuzにとって、スルタンは軍隊を指揮するものであり、Mawlay  Hasan に対して軍隊がバイヤを行っているという事実23)、またSidi Muhammed の死にあたって、Mawlay     Hasan が軍隊に対して、軍の長が死んで残念であるという哀悼の意を表明した書簡を送っていること24)、またMawlay  Hasan からエッサウィーラのカーイドに対して、アガディールの軍隊をもっと強化する必要があるという内容の書簡(25) が残っており、スルタンと軍隊は、指揮するものと、されるものという関係にあるが、その関係はバイヤというイスラームの長としての権威をスルタンに認めたうえで成立するものであった。

 したがって、上述のMichaux-Bellaireがおこなった、スルタンと軍隊を並列させ、ともに「マフザン」の指揮を受けるという分析は誤りである。また、LarouiとWaterburyの分析は、ともにスルタンと軍隊との関係について、明確な説明を与えていない。Terrasseの分析は、軍隊を権力行使の手段と考えている点では、歴史的な事実を説明しているが、そもそもモロッコの統治体制を、「中央政府」「地方政府」という政治面からしか捕えておらず、イスラーム的な側面はまったく議論の前提から外している点で根本的に誤りであるといわざるを得ない。

第二節 スルタンと税金

 (1)税制

 Michaux-Bellaire は、保護領期以前のモロッコの税金について、直接税と間接税という二つに分けて考察した。直接税としては、「イスラームによって定められた税金」として、az-Zakat、al- ‘Ushur 、al- Hadiyya の三つをあげた。税率はザカートは所有している財産の2,5%、ウシュールは収入の10%である。ヘディーヤは大きな祭の際に信徒の長に渡す贈り物が後に義務となったものであると説明した。間接税としては、an -Nakas(商業税)、al-Maks(関税、入市税)や、an-Nayba(土地税)、al-Harka (軍事遠征費), al-Gharama(罰金) al-Dha’ira(謝罪)、as-Sukhra(コミッション) ,al-Muna(生活費) があげられている(26)

 しかし、直接税と間接税という区分やヘディーヤを税として取り扱うことは一考の余地がある。つまり、ヘディーヤはイスラームによって定められた税金ではなく、またスルタンへの一方的な贈り物でもない。Mawlay ‘Abd ar-Rahman はマラーケシュのハリーファであったMawlay  Hasan  に書簡で、預言者Muhammedの誕生日にキスワを受け取る人々の名簿を渡し、彼らにいつものようにキスワをあたえるようウマナーに命令を与えるように、という指示を与えている。またアミーン間の書簡で、Mawlay  Hasan  から聖者廟であるムーライ・イドリースに対する現金のヘディーヤについても述べられている27)。したがって、直接税、間接税という区別ではなく、イスラームの定めた宗教税とイスラームの定めたもの以外の非宗教税とに区別をし、前者としてザカート、ウシュル、後者としてan -Nakas(商業税)、al-Maks(関税、入市税)や、an-Nayba(土地税)、al-Harka (軍事遠征費), al-Gharama(罰金), al-Dha’ira(謝罪)、as-Sukhra(コミッション) , al-Muna(生活費)を分類し、ヘディーヤは税金として分類しないほうが適当である。

  免税の特権を持っていたのは、次の人々であった。そのグループは三つに分けられる。第1グループはシャリーフ、スーフィー、マフザンの役人で、第2グループはギッシュを構成する部族、第3グループはスィーバの部族である28)

 ただし、Mawlay     Sulaymanの時代は、アリームにイデオロギーの基盤をおき、つまりサラフィーヤをイデオロギーとして用いたので、、スーフィー、ザーウィヤ、シャリーフに税金の支払を「アッラーの義務」として強要した29)。スィーバの部族はハルカの後のみ納税を行った。また、旱魃、疫病、地震、飢饉などの非常時は納税が免除された。

  Mawlay  Hasan  は、、モロッコが外国人に対してもモロッコ人と同様課税できることをヨーロッパ列強に示すことを目的に、宗教税の対象外である非ムスリムに対する課税として、Tertib 税を導入した。しかし、実際には外国人からの徴税を実現するには至らなかった。さらにMawlay  ‘Abd al-Azuzは、1901年ザカートとウシュルを廃止し、ムスリム、非ムスリム両方にTertib税だけを課そうとした。しかし、これは『クルアーン』に定められたものではなく、イスラーム法的根拠がない上、前述のシャリーフ、アリーム、ザーウィヤに対する免税特権も廃止したため、これらの人々からの支持が得られず、うまく行かなかった。主要な納税者であったムスリムの農民たちからも支払拒否が多くなされ、税収は増加どころか、減少していった。この1901年のTertib 税改革は「スルタンのキリスト教的改革」と呼ばれている。

(2)前植民地期のモロッコの経済状況と税制改革

 Mawlay  Hasan  によって始められたTertib税改革が、不成功に終わった理由は、前述のように世論に受け入れられなかったことが一つである。同時に、改革がなされた当時、モロッコがおかれた経済状況は、非常に厳しく、たとえ改革が世論に受け入れられたとしても、効果をあげることは難しかったことを示している。

 ここでは前植民地期のモロッコの経済状況について、その状況の悪化を象徴的に示す貨幣価値の変動という視点からみておきたい。

 その当時スーダンとニジェール河流域との金取り引きが減少したことに加えて、1860年のテトワン戦争の賠償金支払によって、モロッコの財政は悪化し、マフザンは税制改革を軸とする財政改革の必要に迫られた。さらにヨーロッパとの商取引によってヨーロッパの貨幣がモロッコ市場において優勢になるにつれて、モロッコの貨幣価値は減少していった。

 モロッコにおいて紙幣が使われたのは、20世紀に入ってからのことであった。それまではすべて鋳造貨幣が使用されていた。しかもおもに貨幣が流通したのは都市と港であった。それ以外の地域では物々交換、あるいはサービスと物の交換が主となっていた。モロッコの都市部以外の地域にまで貨幣経済が浸透していったのは、19世紀の初頭からであった。

 19世紀のモロッコにおける貨幣は、金貨、銀貨、銅貨の三種類であった。そのうち金貨は金がモロッコに乏しかったため、スーダンやニジェール河流域との取り引きが減少した19世紀以降は、流通量が少なく、銀貨が主要な貨幣であった。銅貨はその補助的な役割をはたしていた。19世紀以前、金貨の単位はMithqal、銀貨の単位はDirham、銅貨の単位はFals(複数形;Fulus) であった。1766年、ときの君主、Sidi Muhammed は、Mithqalを、金貨の単位から銀貨の単位に変え、Mithqal  は銀貨の単位となった。1Mithqalは、29gの銀で鋳造され、10Dirhamと同価値とされた。Sidi Muhammedは、もう一つ別種類の銀貨として、Muzunaをつくった。1Muzuna=1/4Dirham =24 Fulus 定められた。同時に新しく、Bunduqi という金貨もつくり、1Bunduqi= 2 Mithqal とした。しかし、これは市場からすぐになくなり、名前さえも忘れられた。

 19世紀から、モロッコの貨幣のほかに、外国貨幣とくにスペインの貨幣の流通が始まった。たとえば、1799年、1Riyal Ispani= 10 Uqiya = 1Mithqalとされた。つまり、銅貨の96Fulus を、モロッコの貨幣1Mithqal (= 銀貨10Dirニam)または、1Riyal Ispaniと交換できることを意味する。しかし、1Riyal Ispaniは、モロッコの1Mithqalよりも、4g少ない銀で鋳造されていた。

  Mawlay ‘Abd ar-Rahmanの治世の初期、モロッコと外国の貨幣のあいだに、価値の不均衡があった。つまり、1 Riyal Ispaniが数Mithqalと同価値になったにもかかわらず、モロッコ国内における1Mithqalの価値は10Uqiyaと同価値のままであった。1822年1Riyal Ispaniは13,5Uqiya  であったのが、1848年17Uqiyaとなり、この26年間で、モロッコの貨幣価値は20%減少した(30)

 以上のような、モロッコの貨幣価値の減少はモロッコからヨーロッパに銀の流出を招き、多くの貨幣の流通は人々に混乱を招くこととなった。

    このような貨幣交換率の不均衡が起こった原因としては大きく分けて総合的なものと特殊なものという二つの原因が考えられる。

 まず一つめの総合的な原因は、経済状況の不安定化である。たとえば、1789年、1800年の疫病、1812年、1815年のイナゴの大群の襲来、1813年、1814年の洪水、1816-20年、1867年と1869年の旱魃、疫病、飢饉があげられる。これらによって経済的にはマフザンの国庫は出資を余儀なくされ、人々の購買力と納税収入の減少が引き起こされた。

 政治的には税金支払の拒否が増え、それに対処するためにハルカ(遠征)がおこなわれた。ハルカをするためには当然出費が必要となったが、なぜ国庫が貧しくなったときにあえてさらなる出費をしてハルカをしたのか。それはまず統治している領土の保全をして、マフザンとスルタンの権益を守り、納税しない部族とマフザンとの間の調停をするためであった。

 そして対外的にはフランスのアルジェリア侵攻、イスリー戦争、テトワン戦争を経て、多くの欧米諸国と条約(1845年対フランス、1856年対イギリス、1861年対スペイン、1863年対フランス)が結ばれた。このような外国の介入が進行するなかで次の3点が問題となった。第一点は、外資会社、ユダヤ人商人、マハミーユーンの商業活動が活発化するにつれて、商取引に関する税関の管理が不徹底になったことである。第二点はテトワン戦争の賠償金支払によって国庫が底を尽き、その後イギリスから借款を試みたがうまくゆかず、港の関税権そのものをスペインに譲渡することによって支払の代わりとしたこと。第三点はテトワン戦争後の軍事改革を行うための輸入によって、砂糖、綿などの近代化を目指していた産業への対策が手薄となった。また港や道路整備にともなう出費がかさんだことであった。以上の国内外の問題によって、当時のモロッコの経済は安定を欠いていった。

 二つめの個別的で直接的な原因は次の8点である。第一点は貨幣量に対する「不注意」である。マフザンはテトワン戦争のあと、はじめて国庫が底を尽きかけていることに気がついたのであった。第二点は、モロッコでは銅を除いて、金や銀の貨幣をつくるための金属資源が不足していたため、スーダンやニジェール川流域との取り引きが激減した19世紀の後半には金貨、銀貨が不足し、Mawlay Hasan とMawlay ‘Abd al- ‘Azizの時代には、フランス、スペイン、ジブラルタルからの銀の購入を余儀なくされたこと。第三点はモロッコで造幣技術があまり発達しておらず、量を多く造幣することが困難であり、またそのため刻印がなく造幣が容易な貨幣であったFulus銅貨が多く流通するようになったこと。第四点はマフザンが銀と銅の交換率を定めたため、外国のRiyalが多く流通するようになったとき、Fulus銅貨の価値が下がると銀貨の価値も下がってしまったこと。Fulus銅貨の価値が下がるにつれて、貨幣流通量は増加する。貨幣流通量が増加するにつれて、貨幣が不足するため質の悪い貨幣の鋳造量が増加し、インフレーションをまねく。Fulus銅貨の価値低下はまず商取引の多い都市部から田舎に浸透するため、商人はFulus銅貨をため込み、都市部と田舎の価値の差から利益を得た。このようにしてFulusの価値が低落し、貨幣分の銅そのものよりも貨幣価値のほうが低下したときには、Fulus銅貨を金属にうち直すという現象も起こったこと。第5点はヨーロッパ人によるモロッコ銀貨の流出である。モロッコの1Mithqalは銀29g、1Riyal Faransiは25gからできており、ヨーロッパに流出させて、この4g の差で利益を得るものが出てきた。マフザンはこの流出を防ごうとしたがうまくいかなかったこと。第6点はテトワン戦争の賠償金支払とその支払のためのイギリスからの借款返済が、ヨーロッパ貨幣での支払いを条件とし、モロッコ貨幣の流出が加速したこと。第7点はモロッコでは貨幣の価値は、ザカートに由来しており、固定したのもであった。つまり貨幣をつくっている金属の価値が貨幣の価値であり固定している。そのため、貨幣の名目価値を実質価値以上に上げることが困難で、ヨーロッパ市場との取り引きで損益を被ることとなったこと。最後の第8点めは悪貨の鋳造であった。例えば、Mawlay      Sulayman の統治する1822年、1Riyal Ispani は10Uqiyaであった。しかし1862年1Riyalは10Uqiya、1888年には120Uqiyaとなった。そのためMawlay‘Abd ar-Rahman は貨幣の公的価値と商業価値を別に設定した。1849年に18Uqiyaであった1Riyal  Ispaniの公的価値は1852年には20Uqiya1862年には32,5Uqiyaとなった。同様に1862年17Uqiyaであった1Riyal Faransiは、1852年には19Uqiyaとなった。しかし商業価値は1849年のまま据え置き、マフザンはその差から利益を得た。しかしヨーロッパの外交官と商人の抵抗によって、商業価値の据え置きが取り止められ、税関収入の50%を失うこととなった。またもう一つの改革として1833年パリで新しい貨幣鋳造が試みられたが、 イギリスのJ.D.Hayがその計画受け入れ拒否をフランスに助言し、実現することはなかった31)

 このような原因から引き起こされた貨幣危機は、税制改革の失敗と相まって、モロッコの経済状況の悪化を促進することとなった。

(3)君主と徴税

 上述のように、税金は宗教税と非宗教税という二種類から構成されていた。そして宗教税を廃止したうえでの非宗教税であるTertib税の導入がムスリムの支持を得られず失敗に終わった。この事実は、税が軍隊とならんで行政的にスルタンを支えるものであると同時に、イスラーム的権威であるアミール・アルムーミニーンとしての側面を支えるものでもあることが理解できる。

  Mawlay  ‘Abd al-  ‘Aziz は、ヒジュラ暦1319年Jumada第2月10日に、農産物と家畜に関する税制の改革について、ダヒール(勅令)を発布した。Mawlay  Hasan が導入した、いわゆるTertib 税についてのものである。その勅令は、住民に税の追加を払うように要求したシェイフやカーイド、アーミルたちの汚職に対するなされた住民の抗議について触れることから始められている。そして、税に関する新しい法を制定するのは、そのような職権乱用を防ぐためであるとされている。あたらしく改正された点は、次の6点である。第一点めは、マフザンに毎年支払わなければならない税率を、対象品目ごとに定めたこと。第二点めは、この勅令以前はあった、アリームなどに対する免税特権が廃止されたこと。第三点めは、アーミルが独自の判断で追加した税金はすべて廃止されたこと。第四点めは、アミーン、アーミル、カーイドなど、すべてのマフザンの役人に、定額の給料が支払われるようになったこと。第五点めは、徴税責任が、アーミルからアミーンに委譲されたこと。そして第六点めは、それまで徴税を行うものが、独自の判断で決めていた税率は、廃止されること、である。

 さらにこの勅令で、港における関税の組織化もおこなわれた。つまり、輸出入に関する税金が組織化された。そしてまた輸入禁止品目に関する船舶の管理と、輸入禁止品目が発見された場合の没収、港における貨物の保管について、そしてアミーンとの関連では、港の官吏の業務についてや貨物の種類による税率が説明されている。また各港の財政と、その港のある街の刑務所に対して、囚人へ衣類と一人当り毎日パンを二つずつ提供するという、各港におけるアミーンの責任についても触れられている。

 各港における官吏の給料については以下の通りである。

 税率を管理する者(1名)(amin at-Ta ‘shir)          150 Riyal

  公証人(2名)( al-‘Adl )                          75 Riyal (1名あたり)

  書記 (2名) (an-Nasikh )      20 Riyal (1名あたり)

 徴税官長(1名)(Amin al- Qabd)          150 Riyal

         公証人(1名)(al- ‘Adl)     75 Riyal (1名あたり)

  書記(1名)(an-Nasikh)         20Riyal (1名あたり)

 通訳官その他(1名)(at- Tarjuman)    30Riyal (1名あたり)

 港湾長 (Ra ‘is  al-Marsa)       15Rail (1名あたり)

  港湾長補佐 (Khalifa)         7Riyal (1名あたり)

 また、 上述のMawlay ‘Abd al-Azizの勅令が発されるまで、徴税責任はアーミルにあった。しかし、実際に徴税業務をおこなったのは、アミーンであった。彼らの職務については、Mawlay Hasan  が徴税を行うアミーンに送った書簡からうかがわれる。

 1301年Shaban 月13日付け(西暦1884年6月8日)の書簡では、以下のことが、Mawlay     Hasan によって要求されている。

1)カーイドIbn al-Meknasiの領地で収穫された小麦と豆類から得られる収入を計算すること。(Mawlay  Hasanはサレーのアーミルに、これらの職務を遂行するために、アーミルのそばで働くことのできる有能な ‘Adlを任命するように養成したことに言及している。)

2)小麦に関するウシュルは、現物で支払わなければならない。また、税金の免除分を除いた後、アミーンHammu ben aj-Jilaliのいるメクネスの港(注;「小麦貯蔵庫」の意)に送らなければならない。

3)豆類に関しては、小麦と同様に現物で支払われなければならない。そして、ララーシュの港に送られなければならない。

4)税金を支払った各人に対して、すぐに証明書を与えなければならない。その写しの一枚をアーミルの代理人(Khalifa)に渡し、もう一枚をあなたが保管すること。

税金の報告と証明書の写しを作成する作業をは、’Adlに頼むか、あなた自身で行ない、写しの一枚を私に送ること。

 また、1304年Shawwal 月 20日(西暦1887年7月12日)付けの書簡では、『クルアーン』およびザカートの義務に関する預言者ムハンマドの言葉が引用された後、次のような内容が述べられている。

1)ザカートを徴収しなさい。『クルアーン』にあるように、またイスラームによって言及されているように。というのは、ザカートを行なわないものは、イスラームの外におり、ムスリムではないからである。

2)速やかに、ザカートが支払われるように、厳しくなければならない。

3)延滞するためのいかなる言い訳も受け入れてはならない。ザカートは、アッラーへの義務だからである。

1.のまとめ

1860年のテトワン戦争が直接的な契機となって、モロッコの財政は悪化し、軍隊の弱体化が露呈した。そして、軍事改革及び財政改革の必要に迫られることとなった。上述のように、軍事改革やTertib税改革が試みられるが、効を奏すことはなかった。軍事改革に関する意見書では、君主の「アーミル・アルムーミニーン」としての性格が強調され、Tertib 税改革においては、『クルアーン』に基盤を持たないTertib税の導入が問題となった。このようにモロッコにおいては、君主は「スルタン」としての側面には、「アーミル・アルムーミニーン」としての側面が影響を与えている。第三章で君主のマフザンの長としての側面をみたうえで、第四章において「アミール・アルムーミニーン」と社会との関わりを考察したい。

2. 国家の長(王)としての君主 

第一節 マフザンの役人任命

(1) マフザンの構成

 まずはじめに、マフザンの構成についてMawlay     Hasan  の時期を例に触れておきたい。

 Sidi Muhammed の大臣の息子であり、自身もMawlay     Hasan とMawlay      ‘Abd al-Azizの治世期に書記官であったHasan b.  Tayyb  ‘Ashrinは、マフザンの官僚組織について次のように述べている(32)

  『Mawlay     Hasan  は非常に強い人である。(モロッコの内外で)問題が絶えなかった彼の治世の最後の時期にもトンブクトウやアルジェリアから人々がバイヤに訪れた。Mawlay     Hasan  の大臣にはAhmad b. Musa , Musa b. Ahmad、Muhammed as-Sanhaji al-Fasi , 首相としてal-Ma‘ti   b.   al- ‘Arabi b. al-Mukhtar al-Ja’ mai , 苦情処理大臣としてas-Safar  at-Tetuani (Mawlay     Hasan の存命中に死亡)、 ‘Ali al-Mesfiwi がいた。Qa’id  al-Meshwar (宮廷のカーイド)としてはJilari  b.  Hammu al-Bukhariがおり、その部下としてMuhammed b. YayshとIdris b. al- ‘Alam al-Bukhari がいた。軍隊を(直接に)指揮するのは ‘Abd al-Allah b. Ahmad (Ahmad b.  Musa の叔父でMusa b. Ahmadの兄弟) 、その部下にMuhammed ben  al- ‘Arabi al-Jami’i、国防大臣としてMuhammed Seghir , 海大臣(外務大臣)として Fadl b. Muhmmad  Gharrid、アミーンのなかで強大だったものとしてMuhammed Tazi  at-Tibatiと(その兄弟である)at-Tazi ar-Ribatiがいる』

   そしてMawlay  Hasan の任命した大臣およびKuttabは以下の通りであった。

  1. i) 大臣

 A- ハージブ(Hajib)

1-Abd ‘Imran al-Faqih Musa ben Ahmad( 1296年Muharram月13日没)

     彼はMawlay     ‘Abd ar-RahmanのHajibであった。Mawlay     ‘Abd ar-Rahmanの死ののち、Mawlay  HasanのHajibおよび首相として任命された。歴史家al-Hasan bu ‘Ashrin は、彼について次のように描写している。『君主は彼にあらゆることを扱う権限を与えた。Abu ‘Imranはマフザンという場の中心的存在となり、この輝かしい王国の頂点にたった。彼の立場は数ある他の大臣たちのなかで最も高いところに位置した。』(33)

2- al-‘Arabi  ben al-Wazir al-Mukhtar al-Jami’i(1303年に病床に伏し、1322年Ramadan 月に没)彼は1303年まで Mawlay Hasan の大臣を務めた。

3-al-‘Arabi ben al-Wazir al-Mukhtar al-Jami’iは、1303年から暫定的に al-Faqih al-Katib  al-‘Adl Muhammed as-Sanhaji  al-Fasiによって代任される。

4-al-Faqih al-Katib al-‘Adl Muhammed as-Sanhaji  al-Fasiの死後、al-Faqih al-Haj j   al-Ma’ti ben al-‘Arabi ben  al-Mukhtar al-Jami’i(al-‘Arabi ben al-Wazir al-Mukhtar al-Jami’iの兄弟)によって引き継がれる。

B- 苦情処理大臣(Wazir as-Shiqayat )

5-  al-Faqih Muhammed as-Saffar at-Titwani. 彼はすでにMawlay  Hasanが即位する以前からこの職についていた。

6-彼の死後、 al-Faqih ‘Ali al-Mesfiwiがこの職を引き継ぎ、Mawlay  ‘Abd al-‘Azizの治世期まで務める。

C- Qa’id al-Meshwar as-Sa’id

7- Qa’id aj-Jilali ben Hammu al-BukhariがMawlay     ‘Abd ar-Rahmanの治世期この職を務める。Mawlay  Hasan は彼をタンジャに任命し、この職は Qa’id Muhammed ben Ya’ish al-Bukhariによって引き継がれる。 Qa’id Muニammed ben Ya’ish al-Bukhariの死後は  Qa’id Idris  Ibn al-Allam al-Bukhari が引き継ぎ、彼はMawlay ‘Abd al-‘Azizの治世期まで務める。

D- 国防大臣

8-  Mawlay     Muhammedの治世期に、軍隊の長を務めたal-Faqih al-Adib ‘Abd Allah ben Ahmad( Abi ‘Imran Musa ben Ahmadの兄弟)をMawlay  Hasan も当初軍隊長として任命。のちに彼をファースのアーミルに任命し、軍隊長としては al-Faqih Muhammed ben al-‘Arbi al-Jami’iを任命。しかし al-Faqih Muhammed ben al-‘Arbi al-Jami’iはAbi ‘Imranのあとをついで大臣となり、その兄弟Muhammed as-Saghirが軍隊長となった。Mawlay     Hasan  の死後、Mawlay     ‘Abd al-‘Aziz によってこの職を解任される。

E- 外務大臣(Wazir al-Bahr wa al-Kalam ma ‘a al-Ajnas)

9- Faddul ben Muhammed Gharritがこの職を務める。

F- アミーンの長

 大アミーンのなかでAmin al-Umana としてMuhammed at-Tazi ar-Ribatiがこの職を務めた。彼の死後は彼の兄弟である ‘Abd as-Salamが引き継いだ。

ii)クッターブ

* al-Faqih ‘Abd al-Qadir ben ‘Abd ar-Rahman al-Fasi

* al-Faqih Muhammed ben ‘Abd Allah ar-Ribati

* al-Faqih al-Hadi al-Fasi

* al-Faqih  Muhammed   ben Sulayman  al-Fasi al-Murrakusi

* al-Faqih   Muhammed   ben ‘Abd as-Salam Ajbilu al-Fasi

* al-Faqih  Ahmad as-Sawiri

* al-Faqih   文人, 詩人 、Idris ben Idris  al-Fasi

* al-Faqih  Muhammed   Ammur

* al-Faqih   , al- ‘Alim , 文人、’Abd ar-Rahman al-Msharfi

* al-Faqih   Muhammed   Dani al-Kabir at-Tazi

* al-Faqih  Ahmad al-Kardudi

* al-Faqih   al-Hashimi Ajana

* al-Faqih   al-‘Adl Muhammed   as-Sanhaji al-Fasi

        ( Mawlay      ‘Abd ar-Rahmanの治世期もKuttab  を務める).

* al-Faqih  Mawlay     Ahmad  al-Balghiti al-  ‘Arbi al-Fasi

*  Muhammed   al-Kardudi

* ‘Allal  al-Kardudi (Muhammed  の兄弟)

* al-Faqih  at-Taher ben Jelloun al-Murakasi

* al-Faqih , 文人、詩人、Muhammed   Dani  as-Saghir (息子;— al-Kabir は彼の父)

* al-Faqih  Muhammed   ben  ‘Azuz ar-Ribati(軍隊の写本筆者)

* al-Faqih  , 文人、Ahmad  ben Faqira al-Meknasi

* al-Faqih  al-Ghali as-Samtiti al-Meknasi

* al-Faqih  al-Qadi  ‘Abd al-Wahed ben al-Mawwaz

* al-Faqih    ‘Abd  al-Karim ben Sulayman  al-Fasi

* al-Faqih  , 詩人、at-Tuhami ben al-Mezuwari al-Meknasi

* al-Faqih , Muhammed   ben al-Fadil as-Sarghini  al-Murrakusi

* al-Faqih  , 詩人、Muhammed   al-Meeddar al-Mezuwar

* al-ナasan ben Tayyb ben  ‘Ashrin al-Meknasi al-Murrakusi

* その兄弟 al-Mahdi とHussein ,   ‘Abd  as-Salam とIdris bu  ‘Ahrim

* al-Faqih   ‘Abbas ben  ‘Abd  al-Qadi ben   ‘Abd  ar-Rahman al-Fasi

* al-Faqih  al-Hasan al-Wadghir al-Fai

* al-Faqih  Idris al-walali as-Safuwi al-Fasi

(2)スルタンのマフザン役人任命について

 前項の(1)にあげたマフザンの役人については、ben Mubarak(B.Musaの家族)の一族とal-aJami’iの一族が、かなりの部分を占めていた。この二家族について、図式化すると以下のようになる(34)

   (人名の後ろの数字は、没年。左の数字がヒジュラ暦、右が西暦)

   [  b. Mubarak の一族 ] 

                   Ahmad  b. Mubarak  (1235/1879)

Abd  Allah (1303/1885)                    Musa ben Ahmad (1296/1879)

Mawlay ‘Abd  ar-Rahman                     Mawlay ‘Abd ar-Rahman のHajib 及び

とMawlay Hasan   の国防大臣。              Mawlay     HasanのHajib 兼首相

as-Sarrajの後任としてファースの

Amil。

   Mukhtar      Ahmad  (1900)    Idris(1900)   Sa id     Hasan     Muhammed

 (1335/1917)   父の後任として

               Mawlay  HasanのHajib

               Mawlay ‘Abd al- ‘Azizの

               Hajibも勤める。

 [  al-Jamiiの一族 ]

                      Mukhtar b.  Abd  al-Malik (1252/1836)

                             Katib

                         al- Arabi( 1322  / 1904 )

                           Mawlay     Hasanの首相

 Muhammed  as-Saghir al-Fasi           al-Haj  al-Mati             Muhammed  

父の死後、一時的に首相。      兄 Muhammed  as-Saghir       ‘Abd  Allah

ファースの ‘Amil の後、             の死後後任。        の後任として

Muhammed   b.al- ‘Arbiの後任                   国防大臣。その

として国防大臣に。                        後‘Abu   ‘Imran

                                 の後任として

                                 首相。

 上図のように、hajib  および首相の地位には、Mawlay    ‘Abd  ar-Rahman  の時代は   Musa ben Ahmad (1296/1879)がつき、Mawlay HasanとMawlay ‘Abd al-Azizの時代は、hajib には b. Mubarak  の一族の Ahmad  ben Musa (1900) が、首相には Musa benAhmad の後は、al-Jami’iの一族がついた。国防大臣の職は、 b. Mubarak  の一族の ‘Abd  Allah (1303/1885)の後、al-Jami ‘iの一族 のMuhammed が、ファースの ‘Amilの職は、 b. Mubarak  の一族のMuhammed as-Saghir al-Fasi の後、al-Jami’iの一族の  ‘Abd  Allah がついた。

 そして、Qa’id  al-Meshwarには、黒人奴隷が起源である軍隊のブハーラの出身者であった、aj-Jilali  ben Hammu al-Bukhari 、  Muhammed ben Ya’ish al-Bukhari 、 Idris    Ibn al- ‘Allam al-Bukhariがついた。

 このように、hajib 、大臣、国防大臣、ファースの ‘Amilには、al-Jami’iの一族とb. Mubarak  の一族を、「交互に」任命し、君主の身近に仕えるQa’id al-Meshwarには、部族の基盤を持たない、つまり部族勢力を基盤にして、君主に対して反対勢力を形成することの困難なブハーラを任命したのであった。

第二節 マフザン、部族、カーイドの関係

      次にマフザン、部族、カーイドの相互関係についてみてみたい。

(1)マフザンと部族の関係

  マフザンと部族の関係について、Ahmad  Toufiqの研究した19世紀におけるイヌルタン(Inultan)の例が、以上のマフザンと部族の関係を具体的に説明している。彼はモロッコ南部に位置するスース地方のイヌルタンにおけるマフザンと部族の関係を、徴税の観点から明らかにしている。

 イヌルタン における部族はマフザンの権威にも属さず、その権威の外にも存在していない。Mawlay‘Abd  ar-Rahman  の時代までイヌルタンはSraghnaの ‘Amilに依存した部族であった。そしてマフザンの代表は、イヌルタンでは、マフザンに支払わなければならないものを集めるSraghnaの ‘Amilのみであった。しかし、人々はInulran のシェイフとその側近たちの搾取するがままにまかせていた(35)。この時期はこのようにイヌルタンは、「スィーバ」と「ra’iyya(ひとびと)」の中間的なものであった(36)。つまり、イヌルタンは、マフザンに税金を支払わない「スィーバ」であり、かつ君主のアミール・アルムーミニーンとしての宗教的権威は認めるライーヤであった。

 その後、イヌルタンのカーイドとして ‘Ali Hadduが任命され、その統治権がFatwakaまで及ぶと、その地方の中心地がDemnatになり、イヌルタンにおけるマフザンの存在が以前よりも強力となり、逆にFatwakaとその他の部族グループは新しい中心の新しい周縁となった(37)

 イヌルタンとその周辺地域については、以下のようなに分析できる。

  Demnat:マフザンの地方における中央、またはアーミル( ‘Amil)の居住している場所。

  イヌルタン:中央に近い第一ポイント、カーイドによって直接アーミルに支配        している。

  Fatwaka:カーイドの家族の代理のもの(Khalifa)によって統治されている第       二のポイント

  Tgana:中央から近い第三のポイント。同じ地方の大シェイフによって統治されている。そして中央と住民の間の調停役をする。

  Imgharn、Ahl Dades、Ahl Tedgha、Ait Bougmaz、Ait Shemkhanという部族:紛争のあと中央の支配下にはいった。マフザンの年間義務、つまり税をあつめ、 Demenatのアーミルに納める役目をする同部族のシェイフによって統治される。しかし、その他の義務を遂行するのは非常に困難である。

  Ait Attaという部族:スルタンに道徳的、象徴的に依存。しかし、スルタンに忠誠を尽くすこと、道路の安全を守ること、郵便物の到着を守ること以外には義務はない。

 マフザンと部族の関係を決定する条件は、常に同じではない。しかしその基礎となるのは社会的、経済的、政治的、および自然の条件である。これらの条件は部族をマフザンに結び付ける関係の強弱さ、その関係が安定であるか、不安定であるかに影響する。

 Mawlay     Hasanがイヌルタンのアーミルであるaj-Jilali ad-Damnatオに、ヒジュラ1300年(西暦1882-3年) 当地の統治状況を聞いたとき、アーミルはIwariddenの部族の状況についてのみ次のように答えた。そこには二つの小さなグループがあり、それぞれZawiya  al-KhalifiyaとTutlin という。これらが「不服従」となった。Getiwaにおいては、Manat とIdmeghinのグループ、Fetwakaにおいては、山岳地帯の住民であるal-Meggun, Ben Amdiwalなどが「不服従」となった(38)

 この状況をよく理解するためには、カーイドの ‘Ali Hadduはスルタンの軍隊の一員であったということに言及しなければならない。それはすなわち彼がカーイドとして任命された部族において貴族的な起源を持っていなかったことを意味する。したがって、状況はal-Gelawi , al-Gundafi , al-Metugi のようなカーイドとは異なる。つまり、 ‘Ali Haddu は行政的には任命されたが、部族の内部からの支持がなかった。

 このイヌルタン の例から、部族とマフザンとの関係については、以下のように整理されよう。部族の内部の人間をカーイドやアーミルにした場合は、彼らと部族との間に紛争が生じたとき、紛争による対立がマフザンと部族の対立にまで拡大することは少ない。しかしカーイドやアーミルがマフザンから任命され、部族の外部からやってきて、部族の内部から支持がない場合は、彼等と部族の間に紛争が生じれば、直接に部族とマフザンの対立となる可能性がある。ただしマフザンに任命された外来のカーイドやアーミルも、多くの場合は、部族の内部に「場」をつくりうる。

 (2)マフザンの役人としての「困難」

 カーイドやアーミルたちが、マフザンと部族の「接点」に位置する障害となったとなったことは、上述のような任地の部族からの支持基盤の有無以外に、以下のものがあった。

 まずカーイドとしての職務を果たすためには財産が必要であった。生活のためではなく、人々を厚くもてなし、より良く統治するための資金が必要なのであった。また多くのシェイフたちとの競争に打ち勝ち、彼らを統治するために多額の出費をした。

 つぎにカーイドやアーミルなどマフザンの役人たちには公的な軍隊がなく、軍事的な基盤がなかった。これは彼らが私設の軍隊をつくることを促進した。それは大家族の広い交友関係や、他の部族の長との同盟に基づいてなされた。したがってカーイドは、中央の代表としての性格よりも、部族の有力者としての性格を強く持つ。

 第三点めとして、カーイドの職は世襲ではないが、多くの場合カーイドの長子は父親のカーイド職を継ぐ。Mawlay     Hasan の死後、aj-Jilaliが権勢を失ったのち、マフザンはaj-Jilaliの領土を減らしてal-Gelawiに譲渡した。そしてaj-Jilaliの領土はイヌルタンとFatwakaだけになった。aj-Jilali ad-Demnatiの暗殺後、その兄弟でマフザンの軍隊のカーイドであるSayyid がその地位につくことを望んだ。大臣 ‘Abd  al-Krim ben Sulayman  が1904年6月の書簡で「彼の一族の手に統治権は残るだろうが、それは実現しなかった。カーイドに任命されるのはMuhammed    Ablajであろう」と述べている。部族のアーヤーンは任命の勅令を受け取るためにスルタンのもとにMuhammed    Ablajを同伴した。2年後、Sayyid ad-Demnatiがイヌルタンのカーイドに任命され、 Ablajは免職にされた(39)

   イヌルタンの場合も、イヌルタンのアーヤーンはaj-Jilaliを君主のもとにつれていったと考えられる。つまり、マフザンはさまざまな抵抗を避けるために部族の人々が選んだ人物を任命することを好んだ。

(3)マフザンとカーイドの相互関係

 当然、マフザンの政策はイスラムの理論に基づいていた。君主は自らをシャリーアの擁護者と考えていた。したがって君主はあらゆる行動をとる際に宗教的な裏付けを求めた。

 ヒジュラ暦1300年ごろのMawlay  Hasan は、カーイドに送った書簡で、統治者が果たすべき義務や正義(アドル)について述べており、正義は統治者がまず実行すべきであるとしている。そして不正義と権力の濫用を批判している。また、カーイド任命の勅令では、カーイドの二大義務について述べている。第一は君主に仕える者として果たすべき義務、第二は部族に関する義務である。第一の義務として、具体的に考えられるのは、君主、君主の権力について良いイメージをひろめること、君主に対するバイヤやヘディーヤを管理すること、君主が部族を訪問する際の準備などである。また第二の義務としては、部族の保安と安定やマフザンの統治権を守る、部族内の紛争を解決すること、徴税、マフザン軍に食糧や武器など軍事物資を提供することなどが考えられる。

 君主およびマフザンとカーイド及び部族が接触する機会としては、おもに次の4つが考えられる。第一は両者の間の書簡である。第二はカーイドの君主訪問である。具体的にはカーイドがアーヤーンを連れて宮廷に出向き、任地の事情説明、紛争に関して君主に仲裁依頼、バイヤ、ヘディーヤ、大きな政治的行政的な決定への参加などをおこなう。第三は逆に君主の部族訪問である。これには平和時の訪問とハルカの二種類がある。最後は君主の使者の部族訪問である。

 君主の紛争仲裁の例は、1896年5月25日のMawlay‘Abd al-Aziz からaj-Jilali ad-Demnatiへの書簡があげられる。その書簡のなかで、Mawlay ‘Abd al-Azizは、アーミルたちが互いに協力するように何度も命令を下したにもかかわらず、アーミルたちのあいだに対立が起こったことを批判している(40)

 カーイドのマフザンに対する「不服従」を理解するためには、モロッコに特徴的な次の点を理解する必要がある。

 モロッコにおけるカーイドの機能には、オスマン朝あるいはエジプトにおける中央政府の地方の役人が持つ、行政的、常任、自律的、官僚的な側面はない。モロッコにおけるカーイドは、国家の命令の実行という点と社会経済的な安定を維持するという点において、役割を担っている。そのような役割にもかかわらず、カーイドは「国家の役人」とはみなされない。「国家の役人」とは、国家がリクルートして、サラリーを与え、税金から一定の割合を受け取るなどの意味においてである。モロッコのカーイドは、たいてい、スルタンによる任命だけでなく、着任先の部族のアーヤーンによる推薦が必要であった。そしてたいていの場合、任命されるカーイドは、推薦するアーヤーンたちのうちの一人で、シャリーフという「象徴資本」か、あるいは経済的に裕福であるという「経済資本」を持つものであった。部族の外部からカーイドが任命されるのは、スルタンの軍隊に所属するものやシャリーフ、マラブーと親族関係を持ち、ザーウィヤという支持基盤を持つものが任命されるなどの例外を除いては、稀であった。

 したがって、カーイドは、部族において国家の命令を実行させるもの、という機能のみならず、マフザンにおいて、部族の「窓口」となるもの(仲裁者として)、という二つの機能をもっていた。特に二番目の機能を、マフザンがカーイドに持たせることは、しばしば、マフザンから経済的に自立する望みや、近隣のカーイドの領地を侵略しようという望みを失わせる働きをした。

 カーイドの政治的経済的利益はマフザンの利益に関連している。つまり、カーイドは、カーイド間やカーイドの領地間の紛争、そして部族のアーヤーンが選んだ人物にカーイドをとって代わらせようという動きから、みずからを守るために、常にマフザンおよび君主とつながりを保っておく必要があった。

 以上のことから、カーイドがマフザンに対して「不服従」となる場合として、二点が指摘できる。第一の点は、マフザンが弱体化しているとき、第二の点は、カーイドが税金の私物化する場合である。たとえば、豊作のときなどに、マフザンに一部だけ税金を渡し、あとは私物化するのである。そして、もしこのとき、君主が介入し、このカーイドに対してハルカをおこなうと、このカーイドの権力濫用は「反乱」と呼ばれるのである。

  しかし、カーイドが、君主の権威からの政治的な独立をめざしたことはなかった。常に経済的な不服従か、マフザンの命令に対する不服従という形がとられた。そしてまた、マフザンの側でも、カーイドを代える必要に迫られたのは、市民に対するカーイドの権力濫用に対して、部族のアーヤーンが君主に不服申し立てをした場合のみであった。その場合は、君主が「スルタンの公正( ‘Adl as-Sultan)」に立ち戻り、カーイドを代える必要が生じた。

(4)カーイドと部族の関係

 Montagneなど西欧の研究者はマフザンの統治を「不正義」で「暴政」とみなし、部族の「民主政」に重要性を置く傾向が強かった。このような傾向に対してAyyache は Rebels in the Rif   で批判した(41)。Ayyacheは、この本のなかで、部族においてカーイドに意見を述べられるのはアーヤーンだけであり、これを「民主的」とみなし、マフザンによる政治、具体的にはカーイドによる統治だけが「暴政」というのは不自然であるとした。Toufiq  は、19世紀モロッコにおけるアーヤーンを「封建的地主」としている(42)。実際、アーヤーンの横暴に対する不満について述べたマフザン宛の書簡が多く残っており、これらの不満に対して、マフザンは仲裁をおこなったり、部族の人々を守る役割を果たした。

 MontagneはSous 地方を例にとって研究をおこない、マフザンの「暴政」を結論づけた(43)。しかし、イヌルタン ではマフザン権力の存在が強大であったため、アーヤーンの権力は小さく横暴はみられなかった。ここではカーイドが紛争解決も含めて、政治的行政的な実権を握っていた。イヌルタン は、このスース地方の中心であったことからも、Montangeの導いた結論は不適切といえる。

    マフザンと部族との関係についてゼンムール(Zemmour)の部族について、もう一つ別の具体例をあげたい。

 この部族はラバトとメクネスの中間に、約44000ヘクタールの範囲にわたって居住している。ゼンムールの南にはザヤーン(Zayan)、西にはズアイル(Z’ayer) とスフール(Shul)、北にはベニー・ハサン(Beni Hasan) が存在する。

 18世紀末、ゼンムールのカーイドの数はal-Ghazi 1人であったが、軍事関係の記録である歴史史料によると、 1882-3年、16の部族で構成されるゼンムールのカーイドの数は20人であった。またマフザンの書簡によると、1888年にはカーイドの数は23人であった。これはMawlay     Hasan の行政改革によってカーイドの数が増えたためであった。つまりカーイド一人一人の管理する地区が小さくなったのであった(44)

 an-Nasiriによると19世紀初め、カーイドの一人であったBen al-Ghaziの場合は、マフザンに大きな地位があり、Mawlay      Sulayman  にバイヤをおこなう際のファース住民による諮問など興味深い重要な政治的決定に参加した(45)。このようなマフザンとカーイドBen al-Ghaziの関係は、マフザンと地方権力の関係が具体的にどのようなものであったのかということを理解する一助となる。つまりカーイドの反乱はときにはマフザン権力に近づく手段の一つとなったのである。

 Akensoussによって書かれたal- Jaysh  al- ‘Aramram(「大軍隊」)という本には以下のような記述がみられる(46)

 「上述のように、問題の原因は Mawlay      al- ‘ Arbi ad-Darqawi の支持者であったIbn al-Ghaziである。さきに述べたように、彼(つまり、Mawlay     al-  ‘Arabi)は、Mawlay     Yazidと問題があった時期Oudayaの牢につながれていた。そしてファースに平和が戻ったとき、 Mawlay      al-‘Arabi の息子の一人がスルタンを訪問し、父の釈放を願った。スルタンはアッラーの名のもとに判断を下した。彼を捕える命を出したのはスルタンではなく、アッラーの意思であった。したがってアッラーが彼を釈放しなければ、スルタンが彼を釈放することはできない。スルタンの死後、そのシェイフを釈放せざるを得なくなった。というのはシェイフの子供たちがそれを強く願ったからであった。Ibn al-Ghaziはその願い出を拒否することができず、彼等を連れてスルタン ‘Abd  al-Rahman  を訪問し、バイヤをおこない、ヘディーヤを渡した。

 Ibn al-Ghaziと同盟を結んでいたベルベル部族の長たちがそのことを聞いたとき、その同盟を尊重しなくなり、Ibn al-Ghaziを「嘘つき」、「偽善者」として扱った書簡を送り、同盟を破棄した。そして彼等自身、急いでスルタンにバイヤをしに行き、マフザンにお金を渡した。Ibn al-Ghaziに関していうと、スルタンは彼を優しさと慈悲と賢明さでもって扱い、彼に多くの意見をした。またすでに釈放されたシェイフはIbn al-Ghaziにスルタンに忠実であり続けるよう勧めた。スルタンは慈悲を大仰に示し、Ibn al-Ghaziに(スルタンの伯父の死後に)スルタンの伯父の妻と結婚することを許した。彼はマラーケシュ、ファース、そしてまたマラーケシュとスルタンに同行した。ファースでは、夜に彼がスルタンの宮廷から出ようとしたとき、武装したBukhara に襲われたが、無事であった。彼はその後数日間、スルタンの宮廷から出ようとしなかった。スルタンがその事件について知らせを受けたのち、Ibn al-Ghaziは秘密裏に宮廷から出ようと試みたが、スルタンが彼を捕えるよう命を下し、Ibn al-Ghaziは死ぬまで牢につながれた。」

 以上の記述について、Raニma Bourqiyyaはマフザンとカーイドの関係について分析した。al-Ghaziが同盟関係にあったベルベル部族の長たちに相談なくスルタンにバイヤを行なったときに、ベルベルのとった行動をみると、彼がスィーバであったとき、ベルベルと同盟を結んでマフザンに対してしばしば反乱を起こし、勝利し、そのあとでマフザンと友好的な関係になったということがわかる(47)

 この点のほかに、以下の三点を付け加えることができる。

 第一点はマフザンが大きな力を持ったカーイドの力をそぐためにカーイドの数を増やし、各カーイドの領地を減らしたこと。

 第二点はカーイドの数は増やしたが、豊かで広範囲に居住している部族について一人のカーイドを置き、逆に小さな部族に二人のカーイドを置くという、一見不均衡な配置も見られた。これはマフザンが反乱の多い部族のコントロールを試みたということを意味している。

 第三点はマフザンはカーイドの間にも「権力の分散」をしたということである。

各々の部族にはカーイドとパシャがいる。たとえば、Aという部族を支配する際、Aのカーイドとパシャが直接の支配をするのであるが、マフザンは近隣の部族であるBとCのカーイドにいわば監督官の役割を担わせた。これは反乱や対立が起こった際にマフザンがより多くの情報を手にし、Ayyacheのいう「調停者」の役割(48)をよりよくおこなうためであった。

2.のまとめ

 マフザンの長としての君主と、マフザンおよび部族との関係を象徴的に表わしているのは、大臣やカーイドなどの任命の方法である。つまり、大きな部族の支持基盤をもつ二大家族を交互に大臣などの要職に任命し、部族と直接接触するカーイドには、任地の部族から支持される者を、可能な限り任命した。そして、前章で取り扱ったように、君主と部族とのもう一つの「接点」である軍隊は、部族的基盤をもたず、君主権に反旗を翻しにくいブハーラと、免税の特権を与えた特定の部族からなる部族軍を主力に構成されていた。

 次章において、君主権と「社会」のもう一つの接点の場である、宗教的な場における両者の「交換」についてみてみたい。

3. 宗教的な場における君主 - アミール・アルムーミニーンとして -

 マフザンのさまざまな権力を統括するのが、君主権の「王」としての側面であった。つまり「王」は軍隊の長であり、大臣、アーミル、カーイド、アミーンの任命権を持ち、財政管理を行い、行政の管理を行う。行政の管理は、具体的にはクッターブによって作成された報告書および大臣、アーミル、カーイド、アミーンとの書簡のやり取り、彼らの作成した報告書などによってなされ、またスルタン直属のカーイドによって、大臣、アーミル、カーイド、アミーンたちの監視までおこなった。

 一方でこの君主権は、「アーミル・アルムーミニーン」であることによって支えられていた。アミール/アルムーミニーンとはバイヤによって成立するイスラーム的権威である。この宗教的権威のもとに君主はアリームたちにファトワーを要請し、自らの行為や決定の正統性を獲得し、カーディーたちの長でもありえたのであった。

 1909年のMuhammed   b. ‘Abd  al-Kabir al-Kettaniの暗殺は、一般に君主権に触れたからであると説明されるが、君主権を否定したわけではなかった。君主に対する批判も「マフザンを構成するもの」として行ない、君主個人に対する礼儀などは常に保持されていた。 またKettaniの憲法改革派から、‘Abd al-Karim Muradの名で発表された憲法改革案49)は、日本の明治憲法にも学び、シャリーフとの協調や民主主義に触れつつも、むしろ君主に中央集権的な大きな権力を与えようとしたものであった。ただし、結果的にはMuhammed   b. ‘Abd  al-Kabir al-Kettaniは暗殺され、 ‘Abd  al-Karim Muradはモロッコから離れざるを得なくなり、ニジェールに逃れた50)

  次に、この君主の宗教的イデオロギー的権威である、アミール・アルムーミニーンとしての側面について、君主とアリーム、君主とザーウィヤの関係に注目することによって考察したい。

 (1)君主とアーリム

Burke IIIは、モロッコのイスラムの特徴として、シャリフィズム、マラブーィズム(聖者信仰)および民衆信仰という三要素を挙げ、さらにオスマン帝国と違って、大ムフティー(大法官)の不在を指摘している(51)。しかし、大ムフティーの不在に関しては、ファースにQadi al-Qudat (カーディーのなかのカーディー)が存在し、彼はモロッコすべての町のカーディー、ファースのカラウィーイーンの教授の任命を行い、ファースのhubus(52)を管理した。また君主がファースのアリームにファトワーーを頼む際、両者のあいだにたったのもQadi al-Qudat であった。

 アリームは宗教的イデオロギー的権威を代表している。したがって、彼らは君主の行為の政治的な側面を管理するのではなく、法的な側面をシャリーアに照らして管理していた。つまり、君主の行為が何を根拠として、何に基づいてなされているのかという行為の正統性が問題であって、どのような方法でなされるのかについてはアリームの問題ではなかった。

 アリームと君主の「接点」は、アリームから君主に対するバイヤと、アリームたちの出すファトワーであった。

 アリームによってスルタンになされるバイヤは、一方的な忠誠の誓いではなく、アリームの側からも条件が付けられる。たとえば、Mawlay ‘Abd  al-Hafidh に対するバイヤのなかで、アリームは多くの具体的な条件をあげている。

 アリームのファトワーは、スルタンの依頼によって出される場合と、依頼によらず独自の判断で出される場合の二種類があった。前者の例としては、Mawlay Hasan がヨーロッパのキリスト教国からの小麦の輸入許可を求めるファトワー依頼(53) があげられる。これに関しては、シャリーアの観点から許可をもとめるファトワーが出された。君主の依頼によらず独自の判断で出される場合は、君主の行為に関して異を唱え、論争を挑むものであった。例えばMawlay ‘Abd al-Azizが、カラウィーイーンに近代西欧をモデルにした教育を導入しようとしたさい、多くのアリームがこれに反対するファトワーを出した。

 したがって、君主とアリームの宗教的な場における関係は、バイヤとファトワーによって規定され、「同盟」、「対立」、「吸収」の三つに分けられる。同盟関係とは、アリームが独立をまもりつつ、スルタンと妥協点を見い出し共存する関係、対立とはKettaniのようにスルタンと対立をする関係、吸収とはアリームがマフザンに吸収され、マフザンの意見の代弁者の役割を果たす関係である。

 (2)アリームの諸類型

 「アリーム」といっても、すべてのアリームが同じ背景を持っているわけではない。まずファースのアリームかファース以外のアリームかという点、アリームとアミーンの職を兼ねているか否か、アリームとカーティブの職を兼ねているか否か、アリームとカラウィーイーンの教授職を兼ねているか否か、アリームとシャリーフを兼ねているか否か、大部族の背景(アサビーヤ)をもつアリームか否かという点で、そのアリームのもつ権力の大きさや種類に違いが生じてくる。

 とくに、君主との関係で重要なのは、最後の2点である。つまり、シャリーフであるアリーム、アサビーヤを持つアリーム、シャリーフでありかつアサビーヤを持つアリーム、シャリーフでもなくアサビーヤももたないアリームのいずれであるかによって、君主との関係に違いが生じる。アリームとは、そもそもイスラームの知識の所有量や理解度の高いものにあたえられる称号であったが、君主との関係、マフザンとの関係においては、そのような宗教的な完成度のみならず、上述のようなアリーム個人のもつ背景の違いが、関係を左右した(54)

 たとえば、Mawlay  Ismai’lの時代のウラマーであった al-Yisiは、奴隷軍(Bukhara)の設立に異を唱えた(55)のであるが、シャリーフでありかつal-Yusiの部族のアサビーヤを背景にもっていた彼に対しては、スルタンは死刑にすることも監獄にいれることさえも不可能であった。それに対して、19世紀のウラマーであったKettaniはシャリーフであり、多くの部族を訪ね、同盟関係を結ぶこと試みた。当時のスルタンMawlay ‘Abd  al-Hafidh はKettaniと同盟関係にあった部族に書簡を送り、彼らの服従を得たところで、Kettaniの暗殺を実行した。つまり、シャリーフであることは、イデオロギー的な力であるが、反面抽象的な力である。したがってこれを支える実質的な力が必要となる。それがアサビーヤであるが、Kettaniがその実質的な支えを失ったとき、スルタンは彼を暗殺することが可能となったのであった(56)

(3)アミール・アルムーミニーンと民衆、アリーム、マラブー、シャリーフ

 アミール・アルムーミニーンに対して民衆からの「贈り物」は、ヘディーヤという。民衆はアミール・アルムーミニーンからバラカとドウアーを受けるためにヘディーヤをおこなうのであるが、同時にスルタンもシャリーフに対して彼らのバラカとドウアーを受けるためにヘディーヤを行うのである(57)

  君主とアリーム、君主とシャリーフ、君主とマラブーの間の関係がアミール・アルムーミニーンという立場として決定されているとしても、三つのグループとの関係がそれそれ同じであるということは意味しない。

 アミール・アルムーミニーンとアリームに関しては、アリームはアミール・アルムーミニーンに対して、国家のイデオロギーが基盤とする宗教的な正統性を与えるという事実に特徴づけられるのである。この機能は二つの基盤に基づいている。第一は純粋に宗教的なものである。それは議論されている問題についてシャリーアに照らした解決策を提示するという法的行為として、ファトワーを出すことである。第二は、政治宗教的な基盤である。つまり君主がアリームに助言(mashura)を求めることである。これは助言であるから、君主がその助言が目的にかなわないと判断した場合は、採用しないでおくことも可能である。ただし、ときには、君主がmashura を求めないときでも、アリームがファトワーのなかで政治的意見を述べることもあった。アリームと王との間に対立が生まれることはしばしばであった。しかし対立の経過は「勢力均衡」に左右された。しばしば君主は、目的を果たす手段を、アリームではなく、マラブーに求めることもあった。

 シャリーフに関しては、君主はしばしばシャリーフの集団を、税金を徴収したり、ハルカをおこなったり、部族間の対立などの問題を解決のための交渉に利用した。例としては、Mawlay      Sulayman  とMawlay     Hasan がしばしば利用したワッザーニのシャリーフがある。また、Mawlay     Hasan  は、Tafilalt へのハルカの際に、ワッザーニのシャリーフのうちのシャイフ(sheikh;最も高い立場にいるもの)を連れていった(58) 。これはハルカという行為により正統性を与えるためのものである。

 当然のことながら、アリームもシャリーフも最低限の独立は保持していた。つまり彼らは、事実上、世論の構成主体であり、彼らの利益が君主の利益と常に一致するわけではないため、君主の言いなりにばかりなっていたわけではないということである。また一方で、君主の目的が、彼らの目的と異なる場合もあった。たとえば、Mawlay     Sulayman  の場合、マラブーティズムやときにはシャリーフにも対立する宗教的イデオロギーを国家の基盤においており、たとえ短期間、ワッザーニのシャリーフを利用したとしても、国家のイデオロギー基盤が宗教的なものであることに変わりはなかった。

 君主とマラブーの関係に関しては、ziyara  ( 訪問) をした部族、ザーウィヤ、シャリーフからヘディーヤを受け取った。同時にマラブーの墓を訪ねるために、ヘディーヤを持参した。Mawsim(マラブーの祭り)においては、人々はザーウィヤ、ザーウィヤの管理をする家族、「ワリー(聖者)の息子」と呼ばれる、マラブーと関係を持つ家族にヘディーヤを持参する。このような文脈において、君主もまた、ワリー(聖者)のバラカを受けるために、ファースのMawlay  Idris  などいくつかのマラブーにヘディーヤをおこなうのである。この意味で、シャリーフの長としての君主とマラブーの関係は、バラカの象徴的な交換に基づいている。したがってシャリーフとして、アミール・アルムーミニーンとしての君主の同意はマラブーの象徴的交換の循環に不可欠なのである。しかし同時に君主は、その正統性を普及させるためにマラブーに依存しているのである。

 Edward Westermarkは、著書 Ritual and Belief in Moroccoのなかで、君主からマラブーへのヘディーヤについて、君主がヘディーヤをマラブーのザーウィヤに与えるとき、君主はそのワリー(聖人)からバラカを受け取るが、このとき君主は同時にワリーの持つ勢力に潜在的な「暴力」を麻痺させているという点を説明している(59)

 それは、君主がziyyarat(訪問)の際にヘディーヤを与えるという事実が、マラブーと平和条約を結ぶという働きをしているためである。René Girardの著書『暴力と聖なるもの』で用いられた言葉に従えば、ヘディーヤという儀式は、「現実の暴力を象徴的で「聖なる暴力」に変化させたのであった(60)

 また、もしマラブーが部族間の境界の役割を果たすとすると、部族間紛争や家族間のもめごとなどにおいて、マラブーは「調停者」の役割を果たす。契約を交し、譲歩をし、同盟を結び、部族間や他のザーウィヤとの境界を決める。上述のように君主自身も、紛争の際に「調停者」の役割を果たす。しかし、君主が「調停」をおこなう際には、マラブーを紛争中の両グループの仲介者として使用する必要があったのであった。

 (4)ハルカについて

 ハルカに関しては、税金に関する経済的な側面を紛争の目的に持つ場合、君主の統治権は、たとえハルカの指揮をとるものが君主であったとしても、尊重される。しかし、スィーバの部族の不服従が、宗教的な正当性を持つ場合は異なる。宗教的に正当性を持つ場合とは、君主が、Jihad(外国の侵略に対して領土を守ることなど)あるいはシャリーアに基づく税金を廃止して、行政的な税金を設置するなど、アミール・アルムーミニーンとしての宗教的な機能を放棄したような場合である。そのような場合、アミール・アルムーミニーンとしての宗教的な基盤が非常に弱くなり、君主の正統性の有無が問われることとなる。このような場合の一例としては、20世紀初頭の、Mawlay      ‘Abd  al-Hafidh ,  Mawlay      ‘Abd  al-  ‘Azizに対する反乱があげられる。

    またスルタンはハルカをおこなうとき、大きなテントを設営する(上述のゼンムールの場合は一年に平均して2度のハルカがおこなわれた。)

 このテントには、実際の武力を補充する拠点であるのみならず、スルタンの力を誇示する意味もあった。つまりハルカの時に、君主のバラカを求める多くの部族を招待したが、このとき示される「君主」の権力は、スルタンとしてのみならず、シャリーフとしてあるいはアミール・アルムーミニーンとしての権力でもあった。

3.のまとめ

 モロッコの君主は、スルタンとしての機能、宗教的な長として、つまりアミール・アルムーミニーンという機能、そして政治的な長、マフザンの長としての機能を持っていた。状況によってこの三つの機能のいずれが前面にでるのか異なった。

 国家の長としての君主は、マフザンの頂点に位置する、マフザンという組織の一構成要素である。しかし、アミール・アルムーミニーンは、マフザンという政治組織を超越した宗教的な権威であった。

 国家の長としての君主と、アーミル、カーイド、パシャ、アミーンとのつながりは、大臣を通して、クッターブを通して、及び直接に、という三つの方法があった。そして、アミール・アルムーミニーンとして、アリーム、軍隊、ザーウィヤ、シャリーフと直接関係があったのである。

 当時のアリームたちは、商人、カラウィーィンの教授、アミーン、カーディーなどの職業も兼ねていた。そのためスルタンは彼らにマフザンの長として政治的な圧力をかけることが可能であった。たとえばMuhammed   b.  ‘Abd  al-Kabir Kettani暗殺の際も、マフザンの長として、アリームたちの意見を変えさせた。

 El- Mansourは「世俗的」「伝統的」という二つのカテゴリーで、19世紀末からのモロッコの状況を理解しようと試み、アリームはすべて後者の「伝統的」な集団で、近代改革に関して反対意見を持つと理解した(61)が、先に触れた憲法改革案や、モロッコに最初に印刷技術を導入したのがスーフィーでアリームの一人であったKettaniであった(62)ことからも、このEl-Mansourの二項対立の構図は誤りであるといえる。

むすび

 本論文をむすぶまえに、論文中、マフザンにおける軍隊の位置付けに関連した箇所で述べた「マフザン」の定義にもう一度立ち返っておきたい。モロッコ人研究者および外国人研究者の研究においては、「マフザン」は、語源的な用法、口語的な用法、歴史的な用法の三つに分離して使用されてしまっている(63)

 しかし、「マフザン」という語のこの三用法は、次の三つの共通概念を含んでいる。第一に、王は、政府機能として、官僚機構として、そして宮廷としての「マフザン」の中心であること。第二に、「マフザン」は、安全、安定性、そして暴力を供給する装置であること。第三に、「マフザン」は、経済財の再分配の管理機能を担っていること。この三つである。これらは、一般的な「マフザン」の用法と共通しており、区別することは難しい。

 本論文における研究における「マフザン」の唯一の相違は、用法の「環境」である。つまり、使用される地域による「マフザン」という語の違いである。都市部における「マフザン」の用法と、都市部以外における用法は異なる。

 王とその官僚機構が権力をより行使しやすい政治的中心の場に近い都市部と、国家の管理が都市部に比べて弱く、永続的ではない、都市部以外の地域においては、「マフザン」の意味するものは、当然異なる。したがって、マフザンの権威が受け入れられている地域と、そうでない地域とでは、民衆レベルにおいて「マフザン」に対する認識は異なる。前者では、マフザンは、君主を取り巻く「安全」と「安定」の機構である。後者においては、君主のアミール・アルムーミニーンとしての権威のみは認めているため、君主はマフザンの「暴力行為」には含まれていない。つまり、マフザンとは、「暴力行為」をおこなう政治機構として認識されている。

 マフザンの機構を図式化すると、次ページの通りである。

 [   マフザンの組織図 ]

                     君主

                       アミール・アルムーミニーン

マフザンの長(王)  スルタン(軍隊と税金)

 各大臣 Kuttab       軍隊       sharif/  ‘alim / zawiya   宮廷

  ‘Amil/Qa’id                                                  Hajib    Qa’id

                                                                       al-Meshwar

     Amin                                        Kuttab    近衛兵

                         部族/  ‘Amil/ Kuttab/ Amin/

                                                      Qa’id/ ‘alim/sharif

 君主は、マフザン、軍隊、宗教的な場のそれぞれを、様々な「象徴交換」を行うことによってコントロールした。マフザンでは、大きな部族の支持基盤をもつ二大家族を交互に大臣などの要職に任命し、部族と直接接触するQa’id  には、任地の部族から支持される者を、可能な限り任命した。軍隊は、その核となる部分を、部族的基盤をもたず、君主権に反旗を翻しにくいブハーラと、免税の特権を与えた特定の部族からなる部族軍で構成した。そして宗教的な場は、アリームおよびシャリーフによって、その「正統性」を支えられ、マラブーとのバラカの「交換」によって、ザーウィヤの持つ「権力」を統制した。

 従来の研究では、マフザンは部族を暴力で支配するinstitution of violence  であるととらえられてきた。しかし、以上見てきたように、マフザンは社会との様々な「象徴交換」をおこない、社会に潜在的な「権力」を管理していた。つまり、「マフザン=institution of violence  」というこれまでの理論には、社会から国家へ、という側面が見落とされていたのであった。

 19世紀末から20世紀初頭、Tertib税など、列強の影響によって非宗教的な改革をすすめたが、そのため「スルタンはキリスト教徒になった」といわれるほど、君主権のアーミル・アルムーミニーンとしての側面が弱体化してゆき、ムスリムの支持を急速に失っていった。結果として、列強のかいらいになるより他、道は残されていなかったのである。

 Mawlay     Hasan までの君主は、国内的には軍と税金に支えられたスルタン、マフザンの長としての王、そしてイスラームの長であるアミール・アルムーミニーンという三つの機能を持っていた。そして対外的には外交官という、あわせての四つの役割を担い、特に国内的に三つの側面を状況に応じて操作することによって国内秩序を保っていた。しかしMawlay  Hasan の死後、Mawlay ‘Abd al-Azizが若くしてスルタンとなったとき、ハージブであったBa Ahmad  が政治的に君主を支え、「スルタン」「王」「外交官」としての役割を補った。けれども本来、「信徒の指揮者」というムスリムとしての、個人の宗教的な資質に依存する権威である「アーミル・アルムーミニーン」の側面はBa Ahmad  が補い得ない側面であり、上述のようにMawlay  ‘Abd al-Aziz、つづくMawlay ‘Abd  al-Hafidhの両スルタンは、非宗教的な改革によって、ムスリムたちの支持を失ってしまった。そのためMawlay Hasan の治世期まで維持されていた国内的な秩序維持の「装置」の車輪の片方がはずれてしまい、1912年に保護領条約が成立する事態に至ったのである。

  「はじめに」で述べたように、モロッコ近代史、特に政治史の研究や、その分野の論文にみられる特徴は、学際的な視点の欠如や概説史的な性格であった。 Abdullah Laroui が Les origines sociales et culturelles du nationalisme marocai neEsquisses historiquesを書いた60年代までの、19世紀モロッコの政治体制を扱った研究は、大半が理論化を試みることなく描写的で、また「スィーバの土地」「マフザンの土地」という植民地主義のステレオタイプの分析や、文化人類学の分節理論にとらわれたものであった。本論文では、モロッコのナショナリストの研究も、フランスその他の植民地主義的な研究も擁護する必要がない日本人研究者として、また当時の日本人の認識に囚われる必要もない現代研究者として、四種類の歴史史料や研究から、近代モロッコ政治史の再構成を試みた。四種類の歴史史料や研究は以下の通りである。

 第一は第一次史料である。これには、書簡、写本、勅令などが含まれている。第二は、論文で扱った時代と同時代に生きたモロッコ人、または現代のモロッコ人研究者によるモロッコ史の記述。第三は、同時代または外国の研究者によるモロッコ史の記述。第四は、歴史以外の分野の研究(経済学、社会学、イスラーム法学、人類学など)である。

 この四種の史料や研究から、従来の概説的、描写的な研究に対して、最低限の理論的な枠組みを提出した。

 19世紀モロッコの政治構造を研究するために、二つの側面、機能を選んだ。第一は、19世紀の国家機能の二つの基礎としての税金と軍隊である。多くの研究において、軍隊は政治的な場のさまざまな要素のうちの一つとしてしか扱われず、政治制度における軍隊の役割、あるいはその構造についての研究は稀にしかみられない。もう一つの基礎としての税金は、部族同士の関係、あるいは部族と他の生産単位、部族と国家の間の関係を決定する経済財としてのみ研究された。しかし、政治的な決定要素として、または国家の他の機能のイデオロギー的な決定要素として研究されたことはこれまでほとんどなかった。

第二の側面、機能は、スルタンとして、そしてアミール・アルムーミニーンとしての君主の機能である。どのようにして君主が政治的、イデオロギー的、宗教的な機能を操作するのか、という点である。ただし、論文中では、意思決定者としてのすべての政治的、イデオロギー的意思決定者に触れたが、特に君主が、他の意思決定者との関係において、どのように、みずからの政治的、イデオロギー的役割を使い分け、社会との「交換」によってその君主権を維持しているかという点を特に考察し、モロッコにおける政治体制を歴史的に明確にすることを試みた。

(1)P. Bourdieu , 特に1979, 1980, 1992 .

(2)el-Mostafa, ar-Rezrazi「モロッコの政治思想における日本のイメージ - 1880年から1912年の憲 法論争をめぐって」日本中東学会第十回年次大会(1994年5月15日)における発表(杉田、1995年、301ページ)。

(3) ‘Amir al- Munminin  「信徒の指揮者」の意。Ibn Khaldun は、『歴史序説』のなかで、この称号について、以下のような説明をしている。

   「ところで、ムハンマドのある教友がたまたまウマルに「信徒の指揮者」(アミール・

アルムーミニーン)と呼びかけたことがあった。人々はこの呼び方を好ましく思い、それに賛成した。そこで彼らはウマルをこの称号で呼ぶようになった。ウマルをそう呼んだ最初の人はアブドッラー・ブン・ジャフシュとも、またアムル・ブン・アルアースともムギーラ・ブン・シュウバともいわれ、またある遠征軍から勝利の報告をもたらした伝令であるともいわれている。その伝令はメデイナに入って、「信徒の指揮者はいずこにおわす」と叫んでウマルを探した、ウマルの側近がそれを聞いて喜んだ。彼らは「実に汝は彼に正しい称号を与えた。彼はまことに信徒の指揮者である」と言った。こうして彼らはウマルをそのように呼び、これが人々のあいだで彼の称号となった。ウマルを継いだカリフたちは、誰にもつけられないカリフ特有の称号としてそれを受け継いだ。ウマイヤ朝の場合がこれである。(中略)マグリブに強力な権力がなくなり、ザナータ族が政権を獲得したが、ザナータ族の初期の支配者は、砂漠の遊牧的生活と素朴さを持ち続け、ラムトーナ族の[ムラービト朝の] 例に倣って、カリフの高貴な身分に敬意を表して「イスラーム教徒の指揮者」の称号を使った。それというのもザナータ族は最初にはアブドルムーミン家のカリフに、のちにはハフス朝のカリフに服従していたからである。しかし後期のザナータ族支配者たちは「信徒の支配者」の称号を熱望し、今日では王権としての目標の追求と王権の様式および特質の完成を願ってそれを使っている」。[第30章、Vol,I pp. 408-14 , 邦訳第一巻454~62ページ]。

 また書簡において、オスマン朝スルタン ‘Abd al-Hamid はMawlay  Hasan を、「Akhina as-Sultan al-Mu’azzham Hasan 」、Mawlay  Hasan は’Abd al-Hamid を「Hadrat Akhina as-Sultan al-Mu’azzham al-Mufakkham ‘Abd al-Hamid 」と呼びあっていた。オスマン朝のスルタンが、イランを除く他の中東諸国の長に「スルタン」と呼びかけたのは、モロッコのみであり、モロッコについては、自身と同等の権威を認めていたのである。

(4)Waterbury, 1970, p.17.

(5)Geertz , 1983.

(6)al-Allam,  1991, pp.  127-9 .

(7)Laroui , 1980. pp.82-3.

(8)Michaux-Bellaire, 1910, pp.15-6.

(9)Laroui,1980, p.82.

(10)Waterbury, 1970, p.22.

(11)Laroui,  1992, p.51.

(12) Michaux- Bellaire, 1910, p.15.

(13)Laroui, 1975, p.81.

(14)Bellaire, 1910, p.17. Waterbury,1970, p.23.

(15) Ibn  Zaidan, Vol. V. p.155.

(16) a-Tassuli , al-Jawab al-Basit.

(17) al-Amrawi   Gharrit ,as-Shangutiの三人はフランスのアルジェリア侵攻に抗議する詩を発表し、そのなかで、フランスに対するジハード(聖戦)と軍事改革の必要性を訴えた。

(18) Laroui, 1980, p.81.

(19) Laroui, 1980, p.81.

(20) Gaillard et  Bellaire, 1909, p.2.

(21)Terrasse , 1975, Vol.II pp.342-56.

(22) Waterbury, 1970, p.17,20.

(23) Wat ha’iq  No. 305.

(24) Wat ha’iq  No. 349.

(25) Wat ha’iq  No.297.

(26)Michaux-Bellaire, 1910, pp.56-82.

(27)Wath a’iq , No. 401-2.

(28)Driss Ben ‘Ali, 1974 , p.213.

(29) El- Mansour, 1990,  p.1-5.

(30) Toufiq, 1983, p.259-67.

(31) ‘Omar, 1986,  pp.79-83.

(32)‘Ashrin , 1906,  p.34.

(33)‘Ashrin, 1906, p.21.

(34) この図は、al-‘Alam bi man Halla Murrakush wa Aghmat min al-‘Alam. より、筆者作成。

(35)Toufiq, 1983, p.469.

(36)Toufiq, 1983, p.469.

(37)Toufiq, 1983, p.470-1.

(38)Toufiq, 1983, p.471.

(39)Toufiq, 1983, p.472.

(40)Toufiq, 1983, pp.479-80.

(41)Ayyache,  1968.

(42)Toufiq, 1983.

(43) Montagne, 1930.

(44) Bourqiyya, pp.62-4, 1991,

(45)an-Nasiri, Vol.8 , p.150.

(46)Akensouss , p.423, ヒジュラ暦1336年。

(47)Bourqiyya, p.61, 1991,

(48)Ayyache, 1979.

(49) モロッコの憲法改革案は三つあった。1906年の ‘Ali  Zimberによるもの、1907年の ‘Abd al-Karim Muradによるもの、1908年のRisalat al-Maghrib 紙によるものである。

(50)ar-Rezrazi , al-Mostafa, 1995.

(51)Burke III,  1972

(52) Hubus は、正則アラビア語のwaqf のモロッコ方言である。  イスラーム法の用語として「所有権 移転の永久停止」を意味する。

(53) 1336年 Rajab I 月 6 日の書簡。

(54)Rezrazi, 1995.

(55)Lévi- Provençal. 1991, pp.269-72

(56)Munson, 1993, pp.73-6.

(57)Wat a’iq , No. 297, 401-2 .

(58)an-Nasiri

(59)Westermark, 1926.

(60)Girard, 1972.

(61) el- Mansour, 1994.

(62) Fawzi , 1990.

(63)例としては、Eyclopedia of Islam   の Makhzen の項。

参考文献(抄)

* 日本学術振興会特別研究員.

Leave a comment
Your email address will not be published. Required fields are marked *